モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

我々はなぜ間違えたのか『現代経済学の直感的方法』 長沼伸一郎

ビジネス書大賞2020 知的アドベンチャー部門 特別賞を受賞した本です。

 

 

現代経済学の直観的方法

現代経済学の直観的方法

 

 

この本はめちゃめちゃおもしろいです。万人におすすめ出来ます。特に経済学を体系的に学んだことのない方、選択科目で少しだけかじった程度の方、毎日仕事に邁進しても全然幸せを感じられない方、に良い処方箋になるかと思います。

 

著者は経済学者ではなく、物理学者・・・?でもないのかな。教授職や公的研究職についている方ではなく、私的に研究世界を切り開いている方のようです。

 

文体が実に軽妙で、日本昔話を読んでいるような気分にさせてくれる一方、物理学的知見から切り込まれる現代経済の洞察は文字通りラディカルで、日常世界の固定観念を一新させてくれるような鋭さを持っています。

 

付箋を貼った箇所が20箇所以上あるのですが、特に印象深かったテーゼを紹介いたします。

 

P18資本主義経済が現場の高度を保つ際の浮力はそのうちの4/5を飛行船のように船体自信が発生する浮力であるが、残りの1/5は言わば翼の揚力によるものであり、止まった状態では全く発生しない性格のものである。つまり、現在の状況では経済が現場の位置で静止しようとして前進を止めたなら即座に浮力の1/5が消失してしまうことになる

 

 

 

これは日本経済全体の中で消費と設備投資の比率が4:1であることから導き出せる結論です。設備投資というのは今後もっと消費が増えるであろうという期待から使われるお金です。その割合が全消費の1/5を占めているという衝撃。何を隠そう私が勤めている商社業界でもBtoBビジネスが売上の殆どを占めておりまして、BtoBというのは基本的には生産設備を増強したり維持したりするためのビジネスですので、飛行船で言うところの揚力みたいなものです。なので、もし我々が無限の経済成長を諦め定常経済に移行した瞬間、我々は翼による揚力を失いGDPの1/5を失うことになります。それは現状貧困に苦しんでいる人を見捨てることになり、夢見る若者の将来を奪うことも意味します。だから我々は毎年毎年今期比+○%成長などという予算を作成し、無謀なビジネスに挑戦しつづけては疲弊しているのです。

 

P93 農業というのは他の産業に比べて需要が本来あまり伸びないという特性を持っている。例えば収入が2倍になったからといって人々はジャガイモや人参を今までの2倍食べるようになるだろうか。農業の弱点というのは実にここである。人間の胃袋の大きさに限度があってどう努力したところで人間は1日1トンのジャガイモを食べるようにはならないという現実がその需要を固定的なものにしているのである

 

農業経済が工業経済に勝てない根本的な理由がこれ。そしてこのことが南北経済格差の根本的な原因なのです。ちょっと説明します。

 

A国は100の労働力を投下すれば車10台、じゃがいも50個作れるとします。

B国は同じ労働力で車1台、じゃがいも20個作れます。

 

これはA国のほうが車においてもじゃがいもにおいても絶対優位に立っているのですが、両方の国の生産性の合計を最大化するにはA国が自動車を作り、B国がじゃがいもを作るのが最も合理的な解となります。これはB国からみてじゃがいもが比較優位を持っていることになります。

 

なので、A国もB国も納得してそれぞれの比較優位なものを生産するのですが、ここで上記の問題が起こるのです。車は一人が2台も3台も持つことができるし、自然人だけでなく法人が所有する場合もあり、まだ1台も保有していない人たちに供給していく素地がいくらでも残っています。さらに車を製造したノウハウはエンジンを発電機に転用したりとか、バス、トラックを作るとか、様々な方法で需要のあるところに転換ができるのです。一方でじゃがいもは「絶対に必要なもの」です。※ここで言うじゃがいもは食料全般の比喩と思ってください。今現在、じゃがいもを持っていない人はいません。なぜならじゃがいもがないと生きていけないからです。しかも、今後じゃがいもを2倍、3倍食べるようにもなりません。人類が2倍、3倍に増えれば別ですが、そうなったところで作地面積にも限界があるので、そう簡単に生産を倍々ゲームで増やす事もできません。さらに、車というのは生産にノウハウが必要なものなのでA国が独占出来ますが、いわばじゃがいものようなものは誰でも作れるのでC国が生産に加勢してきます。すると一気に需要よりも供給が高騰して、価格が下がることになります。A国は自分で車をちゃくちゃくと作り、生きていくのに必要なじゃがいもはB国、C国に作らせ続ける、というのが南北経済格差の問題なのです。南北格差が埋まらないのはB国やC国の国民が怠惰なのではなくて、構造的にA国(先進国)が途上国を途上国のままにさせようとする力学が働いているためなのです。でも、これはA国に悪意があってやっているわけではなく、B国にとっても、C国にとっても、それが経済合理的な選択だったのです。その時点では最も合理的な選択である場合でも、長い歴史でみると全く合理的でなかった、というのは実は資本主義経済の最も嫌らしい特性なのです。このことはあとでも触れていきます。

 

P356 もしビットコインが世界の通貨の主役になったとすればそれは電子的な世界の中に生まれる一種の新しい金本位制度の世界なのである。つまりそれは金本位制度の強みも弱みも同時に引き受けてしまうことになり、金本位制度の限度がすなわちビットコインの限界なのである。

 

 

 

つまりこれはビットコインが世界の通貨の主役になることは絶対にない、という断言です。

 

通貨というのは誰でも簡単に発行できるものであってはいけません。当たり前ですよね。紙に数字を手書きしたものが通貨として通用するようになれば、世界中一瞬にして超インフレに突入します。(このルールが始まった瞬間、手元のメモ帳に1000兆円と書いて、あらゆるものを買いまくるでしょう、お店側も負けじと0を追加しまくって全く決着がつかなくなると思われる。)

 

ここで私の疑問なのですが、通貨というのはいい感じに増やせないと超デフレ化するが、分割できればデフレ化しないのでは?金本位体制の場合、実態のある金が後ろ盾にあったので、金の分割という物理的限界がのしかかってきましたが、bitcoinは単位として0.0000001でも可能です。ということは実はbitcoinの価値を上げることで経済成長に追いつけるのでは、という仮説が思いつきます。

 

例えば通貨の発行量が100円しかない村があったとして、パン屋と農家だけしか家業がないとする。パン屋は農家に1個1円で100個パンを売ります。パン屋はその100円で農家から小麦を買います。これだけで経済が回っているわけです。しかし、農家とパン屋で出産ラッシュ、一気に人口が2倍になったとしたらどうでしょう。小麦もパンも単価が半分になります。様々な産業が生まれ、経済成長すればするほどお金の価値が上がっていき、モノの価値が下がっていく。なのでパン1個0.0001円になるかもしれない。でもそれで経済は原理的には回るわけです。ちょっと単位の扱いが不便だなと思ったら、すべての貨幣の単位を10000倍にする、と決めればいいわけです。貨幣なんて記号ですからそれでも良い。

 

ということはBitcoinは改ざんが出来ない上、金本位体制の欠点も補った完璧なシステムなのでは?とも思えますが、これが違います。Bitcoinを受け渡しするときに行われる台帳への記入処理、いわゆるマイニングですが、この行動のインセンティブBitcoinの発行なのです。そしてBitcoinの発行上限は2100万Bitcoinと定義されているので、最終的には報酬が送金手数料だけになる、という致命的欠陥を抱えています。送金手数料が数百円であれば、だれも大規模なマイニング処理なんてしませんし、送金手数料が何百万万円になれば、だれも通貨として利用しません。この問題を解決しない限り、誰もBitcoinを貨幣として使えないので、Bitcoinは絶対に消滅します。

 

しかし、それでも価値が上がり続けるのがこの世界の面白いところで、私の見立てではBitcoinが消滅する前に、マイニング業者が現金化を企み、自分で価格を釣り上げているのでは、と考えています。だって彼らはいずれ紙くずになるデータの掘り起こしに何億円もすでにつぎ込んでしまったわけです。いま売り抜けても赤字。なのでマイニング事業者が今までのコストを回収してあまりあるくらいに価格を釣り上げようとしている、それに乗じて、さまざまなマネーが流入してきている、と。そうでないと説明が付きませんから。

 

 

Bitcoinは一つの時事問題として、理解すればよいのですが、問題の根本はここからです。

 

 

p373 世界の経済を見ても Google Amazon に代表されるごく一握りの超巨大企業だけは栄えており、それらだけで統計を取れば世界経済そのものは間違いなく繁栄しているのである。そのためこれらが衰退なのか繁栄なのかは一言で言えないことになり、そこでこういう一筋縄ではいかない状態を「経済が(巨大企業に)縮退している」と表現しようというわけである

 

 

 

縮退という概念はネットで検索すれば下記の長沼氏の記事がヒットします。

toyokeizai.net

一言でいうとイオンが出来て町の商店街が潰れることです。これは様々な箇所で起こっていて、もっと抽象化していうと希少性の高い状態から低い状態に移行することで利益を絞り出す経済構造、ということです。3個の商店街がそれぞれ独自性を出してなんとか町を回していた、でも資本主義というのは前述の通り、無限の経済成長を追い求めないと墜落してしまう仕組みなので、もっともっと成長しないと行けない。でも商店街を広げるのも無理だし、新しい需要もない、唯一残された道はでかいモール街に富を集中させて、低コスト、低価格、を実現すること。そうすることで商店街は潰れるが、総体としては富は増えたことになる、と。でも商店街の独自性はなくなり、世界中が似たようなモール街になってしまったと。

 

p386 短期的願望などが極大化した状態で進むことも退くことができなくなり、回復手段を失ったのの半永久的にそれが続くようになってしまっている状態をコラプサーと呼ぶことにしよう

 

 

p399 それにしても我々は今までそうしたことは放っておけば良い状態に回復すると甘く考えてむしろそれを推進すれば富まで引き出せるのだから二重の意味で善だと錯覚しブレーキをかけるべきところで逆にアクセルを踏み込んできたようである。一体どうしてみんなが一斉にそんな大きな勘違いをしてしまったのか一見すると不思議なほどだが、しかしここで一つの仮定を無理矢理導入してしまえばこれらの話は全部正しいことになるのである。その仮定とは「部分の総和は全体に一致する」というものでこれは少し抽象的で分かりにくいかもしれないが先ほどの短期的願望と長期的願望で考えればよくわかるつまり現代の資本主義社会では大勢の短期的願望を集めて行けばそれは長期的願望に一致するということが一種の興味となっているのである

 

 

p405高度な文明とは大量のエネルギーや情報を使うことでより大きくより早くより快適になることだと錯覚してきたのだがむしろ真に高い文明とは人間の長期的願望が短期的願望によって駆逐されるのをどう防ぎ、社会のコラプサー化をどうやって阻止するかというその防壁の体型のことを意味していたのではないか。

 

 

 

ここが本書の肝です。短期的願望を推進してきたことによって長期的願望が損なわれてしまった例は現代社会でそこらにあります。まずは少子高齢化社会。少子化が進む原因は万国共通、女性の教育充実と社会進出です。女性の教育に時間をかけ、ビジネスで活躍してもらうことは単純に素晴らしいことのはずです。女性もそれを望んでいたわけですし、人類全体がそうあるべきだと思っています。でも、人間は社会的存在である前に動物なので、生殖の優先順位が下がってしまい、結果、日本全体が衰退する、という結果を招きました。年金問題も同様です。誰でも健康で長生きしたい。治安を整え、病気を予防し、健康食を安く手に入れることができるようになった。その結果、人が死ななくなり、働かない老人を若者が支えるという社会構造を維持できなくなってしまった。待機児童の問題も同様。子供は祖父母と一緒に育てれば良かったのです。でも、育児方針に口を出してきたり、昔の慣習を押し付けてきたりが、うざかった。だから核家族化が進行して、自分たちだけでは子供を育てられなくなった。未婚問題もそう。会社で同僚を飲みに誘えなくなった。プライベートな話は一切できなくなった。それはうざかったから。好きでもない異性に詮索されるのをみんなが嫌がった。だから社会はそれらを防止する方針を取った。その結果、社内恋愛が激減し、未婚の男女が増えた。前述した南北格差もそう。その時は最適解だと思って農業と工業のそれぞれ得意分野に注力することにした、その結果、農業側は這い上がれない世界になってしまった。地球温暖化問題もそう。物質的不足を解消すれば、人類全体が幸せになると思っていた。資本主義をぐるぐる回転させれば、モノで満たすことが出来た。人間の欲望に応じて活動することが最適解だと思っていた。でも、地球資源を蕩尽することで、逆に現人類と未来の人類を破滅させる事態を招いてしまった。

 

こういうことがいろんなところで起きた。間違いなく世界は少しづつ良くなっていると思っていた。現状に不満をいうと「だって、それを望んでたんでしょ?だったら不満を言うのはおかしいよ」と反論されてしまう。でも、局所的な合理的判断が全体の最適解になるわけではない、ということはそろそろ我々も理解しなくてはいけない段階なのだ。

 

では、短期的願望を追い求めたせいでコラプサーに落った我々人類に救いはないのか。最後に著者はこう言います。

 

p426 人間は外面的な幸福それ自体は吸収することができず人間の心の中で想像力という酵素が作用することで初めて吸収できる状態になる。中略、ここでいう想像力という概念は可能性という概念をもその中に含んでいるが今述べたことも想像力という概念を狭く解釈して可能性という言葉で置き換えるともっとよく理解される。可能性とは現在それがまだ実現していないからこそ可能性というのであってそれはその時点では想像の中にしか存在していないし全てを実際に手に入れて可能性が塗り潰され終わった状態よりもまだ何も現実には手にしてないが可能性の中で莫大な資産が眠っている状態の方が至福感に満ちていること多くの人が感じることである

 

 

 

我々は欲望のままに、資本主義の車輪の上に乗っかり、物質的な豊かさを短期的に求めてきましたが、それで本当に幸せになったと言えるのでしょうか。本当の至福というのは、まだ現実化していない可能性を追い求めているその状態のことではないのか。これが資本主義の限界を迎えた、今後の社会を生き抜くヒントになるかもしれません。奇しくもMr.Childrenの新曲のテーマと重なります。我々が本当に追い求めているのはもう物質でも、富でもない。新しい「可能星」なのかもしれません。

 


Mr.Children 「Brand new planet」 from “MINE”

資本主義の物理的限界が来た!『人新生の「資本論」』 斎藤幸平

先日、初めて地上波で「天気の子」が放送されて話題になりましたが、その中でもこの言葉が出ていました。「アントロポセン」、日本語では人新生(じんしんせい)と言われている地質時代の分類名です。人間の社会的・生物的活動が地球の地質の層として残り続けるほど、地球に対して大きな影響を与えるようになった年代、という意味で使われるようになりました。

 

そして今話題になっているのがこの本です。

 

 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

この本はめちゃめちゃ面白いです。全ビジネスパーソンおよび就職活動中の学生、または進路を決めようとしている高校中学の生徒達にもぜひ読んでほしい。

 

内容は、現在の行き過ぎた資本主義にNOを突きつける、というものです。しかも、今政府や国連、経済学者が推し進めている環境政策を「現代のアヘン」と喩え、ばっさりと切り捨てます。

 

どういう話かといいますと。

 

2020年1月10日、この記事を書いている瞬間も、日本海側では記録的大雪に見舞われ交通網が麻痺するだけでなく、人間の生命を脅かすほどの災害になろうとしています。

 

昨今、この災害の規模が大きく、頻繁になっていると感じませんか。令和元年台風19号関東甲信東北地方に上陸し、甚大な被害を出しました。カリフォルニアでは森林火災の被害が年々拡大し、2019年でも最大規模の被害が起きたと言われていましたが、2020年では前年比の20倍の規模の森林面積が失われたと言われています。ヨーロッパの熱波によって多くの方が犠牲になったというニュースを記憶している人も多いでしょう。

 

これらの天災はランダムに地球を襲っている神の気まぐれではなく、人間の活動によって生じる二酸化炭素が増えすぎたことによって、地球が温暖化し起こってしまった災害だと考えられています。

 

(地球の気温が上がれば、海の温度も上がり、台風が大型化します。森林火災は乾いた地域で起こります。温暖化が進めば地表の水分が失われ森林火災のリスクがより増加し、大規模化します。熱波は温暖化の影響そのものと言えます)

 

 

もうこの事は国際社会も素直に認めていまして、このまま同じように世界中で二酸化炭素を排出し続ければ2100年には地球の温度が今よりも4度上がることになり、その影響は計り知れないものになります。もしも、温暖化によって北極の永久凍土が溶けることになれば、その中に眠っていたメタンガスが噴出し、より高い温室効果を地球にもたらします。それがさらにメタンガスの排出を促進し、ポジティブフィードバックを引越、地球の温度は二度ともとに戻すことができない状態になる可能性があるのです。そうなる前に、2030年までに二酸化炭素の排出量を半分にし、2050年までにはゼロにしようのが国連の目指す姿です。

 

しかし、問題はここからです。

 

二酸化炭素の排出量を抑えるために、世界中でグリーンディールという経済政策が取られることになります。エネルギー業界における火力発電を風力、水力、原子力発電に切り替えることだったり、自動車業界において、ガソリン自動車の販売を禁止にし、電気自動車を普及させようとする動きがそれです。いま大企業を中心にSDGS(Sastinable Development GaolS 持続可能な開発目標)のキーワードを旗印に、それぞれのビジネスモデルの変革を模索しています。私が働いている商社業界も同様で、火力発電の輸出をしようものなら、若者からの非難の対象になりますし、石炭ビジネスをやると株主から注意されるような世の中になっています。

 

企業の人間はこれを新たなビジネスチャンスと考え、風力発電の投資だったり、電気自動車に搭載されるリチウムイオン電池の原料開発に着手したりしているのです。

 

この活動自体は、未来に向けたポジティブな動きだと認識されがちなのですが、実はことはそう簡単ではありません。

 

というか、ちょっと考えたら、誰でもわかることなのです。資本主義が求める無限の経済成長は無限の資源を必要とし、それに応じて二酸化炭素の排出は増えるわけですから。

 

現在、世界人口が約77億人。現在進行形でまだ増え続けており、彼らがみんなより豊かになろうと経済活動を進めれば、より地球資源が必要になりますし、そうなると二酸化炭素の排出量も増えます。たとえ現在よりも50%低燃費の火力発電所を開発したとしても、経済発展によって2倍以上の火力発電所が必要になれば、それは地球温暖化対策としては失敗なわけです。

 

本から具体例を上げます、

P90 電気自動車は現在の200万台から、2億8000万台にまで伸びるという、ところがそれで削減される世界の二酸化炭素排出量はわずか1%と推計されているのだ。

 

 

 

 

電気自動車が普及したとしても、それを生産する過程で二酸化炭素が排出されれば、2050年までに排出量をゼロにする、という目標は達成することができません。

 

P69  2〜3%のGDP成長率を維持しつつ、1.5度目標を達成するためには、二酸化炭素排出量を今すぐにでも年10%前後のペースで削減する必要がある。だが、市場に任せたまま、年10%のもの急速な排出量削減が生じる可能性がどこにもないのは明らかだろう

 

この本の最もスキャンダラスなテーゼがこれです、つまり、経済成長と温暖化対策は原理的に両立しないのです。もうこの世界のすべての人に私達日本人のような生活をさせる資源はこの世界には残っていないのです。でも、現在、飢餓や貧困に苦しんでいる人たちの生活を無視して、もう経済成長をやめようとは言えません。一方、何かやらないとこの生活が破綻することも分かっている。そんながんじがらめの中で出た苦肉の策が、SDGSというわけです。

 

おそらく国連の方々も経済学者もそのことは理解しながらやっています。でも、どうしたら良いのか誰もわからないのです。

 

斎藤幸平氏の主張は「経済成長+温暖化対策の両立という欺瞞をやめて、脱成長にシフトすべき」というものです。

 

本書では実はマルクスの後期の主張も脱成長に通ずる論旨が見て取れる、とかコモンによって脱成長を実現できる、という展開が続きますが、正直言って、そこはあまり読む価値はないと思います。資本主義を突き詰めれば環境が限界を迎えるという現実をマルクスは見通していた、という話はマルクス研究をしている人以外は、本当にどうでもいい話です。うちのじいちゃんが言っていた、と同レベル、もしくはマルクスが言っていたのだったら本当だろ、という権威主義的挙動にも見えて、よりこの本の価値をさげているとも言える。コモンによって人間の生活基盤を支えるという主張も夢物語に過ぎません。

 

経済成長を止めれば、資本主義のかたすみでほそぼそと生活している人たちの生命を奪うことになるでしょう。(牛肉の生産が二酸化炭素排出の原因なので、牛肉の生産をやめようとなれば畜産業だけでなく、そこに付随したあらゆる業界(飼料業、海運業、陸運業、農薬業)の利益を圧縮し、今までギリギリの経営を強いられてきた会社は倒産し、従業員が徒労に迷うことになるでしょう)

彼らの生活を犠牲にしても良いという主張は今後もまかり通ることはありません。だから、脱経済成長にこの世界が方針転換することは、このままでは絶対にないと私は思います。

 

とすると、行き先が断崖絶壁だと分かっていながら資本主義という欲望列車を加速させ続けるしかないのでしょうか。

 

たぶん、この問題に対する解決策は技術革新と価値変革しかありません。技術革新で言えば、地球の二酸化炭素を劇的に減らすジオエンジニアリングの進展に期待するか、もしくは地球外に資源の供給を求めるか。この方針を取るには現在の資本主義を更に加速させて富めるものをより富ませることにより、新規投資に回してもらう必要があります。テスラやアマゾンが宇宙開発に着手しているのも、こういった人類の来たるべき危機を見越してのことです。

 

価値変革とは人間中心主義からの脱却です。温暖化された地球環境では生きられない人間の身体を最大の価値あるものと定義した世界こそが持続不可能なのである、という大転換。これこそSFの世界ですが、こういった議論も世界の片隅で主張している人はいるようです。

 

個人的には技術革新で地球外にさらなる発展を見出す、という方が夢があって良いと思います。

 

とにかく国連が進めているグリーンディールでは何も解決しない。SDGSで将来の地球に貢献していると思いこむのが一番危険、ということは意識しなければならないことかもしれません。この本でも述べられていますが、そういった環境対策をしないほうが良いと言っているわけではありません。やるかやらないならやったほうが良い。でも、それだけで目標が達成されるわけではないことは知っておかねばなりません。

 

この話は自分がなんのために生きているのか、ということを問うことでもあります。今ここ私が幸せならそれで良いのか。未来の子どもたちのために地球を残したいのか、100年後に地球を残したところで1億年後にはなくなるんだから、意味なくね?と考えるのか。私は、せっかくこの世界で意識を持って生まれたのだから、いつか、この世界の根源的不可解さを紐解いてくれる存在につなげていきたいと思っています。この問いを底流に起きつつ、今後も読書記録を続けていきます。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

新自由主義の病につける薬! 『武器としての「資本論」』 白井聡

この2年くらい何故か本を読む気にならなかったのは、どの本にも現状の課題を解決する方法が書いていないどころか、本当の課題が何なのか、というところさえ的はずれな気がしたからです。

 

私はただのサラリーマンなのですが、私が日々感じている課題は、他のサラリーマンの方々のそれとそう変わらないと思います。それは何か。

 

すごく単純な話です。我々日本のサラリーマンのほぼ全員が、経済が停滞している中で、会社に毎年の売上成長を達成する具体的な方策を求められ、未達成であれば吊るし上げられ、さらにその挽回策を求められ続ける環境に身をおいています。答えのわからない問いを問われ続け、それが分からないと他人から責められるだけでなく、自分で自分の無能感を日々痛感させられるという、いわば地獄のような日々を送っているわけです。

 

この地獄を抜け出す方法は「最高の睡眠メソッド」とか「対人関係を良くする心構え」とか「メモの魔力」とかには書かれているとは思えませんでした。世の中ではハウツー本が溢れていますが、その内容を鵜呑みにして数字を分析したところで、新たな勝ち筋が見えるわけではないし、広告費を増やしても買ってくれるお客さんが増えるわけでもありません。何をやっても成果は出ない。失敗しても良いと言ってくれる心の広い人はいる。でもその心の余裕は「最終的には成功するんだよな?」というプレッシャーと共にある。こっちは全く成功する芽が見えない。成功というのはすごくシンプルで、利益を出すこと。利益を出し続けて成長させ続けること。たとえ今多少損を出しても、今後利益を無限増殖させてくれる限り目をつむろう、そう言われているのだ。確かに今は損を出している。でも、今の失敗が次の無限利益増殖に繋がるとは思えない。そして、それを実現できない私は社会にとっても無価値な存在となる。そういう思考をぐるぐる回転させていると、何年かすると性格も変わってくる。卑屈で暗くて、失敗体験の積み重ねのせいでチャレンジしようと思わなくなる。私の昔のブログを見ると可能性に心をときめかせているのが思い出される。羨ましい、というか無知だったのか・・・。

 

 

そんな長く辛い日々にようやく一筋の光を射してくれのが、この本です。

 

 

武器としての「資本論」

武器としての「資本論」

 

 

まさに上のような思考の負のスパイラルに陥った人間に対して、大上段から頭を殴りつけてくれました。

 

P71 新自由主義が変えたのは社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことのほうが社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか。

 

中略

 

新自由主義とは今や特定の傾向を持った政治経済的政策であるというよりトータルの世界観を与えるもの、すなわち一つの文明になりつつある。新自由主義ネオリベラリズムの価値観とは「人は資本によって役に立つスキルや力を身につけて初めて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在してるだけで持っている価値や必ずしも金にならない価値というものを全く認めない。だから人間を資本に奉仕する道具としてしか見ていない。

 

中略

 

資本の側は新自由主義の価値観に立って「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ賃金を引き下げられた当たり前でしょ、もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人はネオリベラリズムの価値観に支配されています

 

 

 

まずはこの箇所が決定的に重要です。まさに今までの私が新自由主義的価値観に溺れた人間の一人でした。利益を出さないと価値がない。いまはだめでももしかしたら許されるかもしれない、でも、いつかは必ず利益を出せ、さもないと、社会から退場するしかない、そんな思いに縛り付けられていました。

 

でも、考えてみればそんなはずがないのです。私にもあなたにも家族や友達や恋人がいて、その人は私が資本を生み出すから一緒にいてくれるわけではありません。ただそこにいるだけで、嬉しい、そういう存在がこの世界にはあります。資本主義的価値観の真逆的存在といえる超大型犬を溺愛している私が、自分自身には資本主義的価値しか認めていなかったのが、情けないくらいです。お金では計れない価値はたくさんあります。私にとっての犬だったり、他の人にとっての子供もそうかもしれません。労働をするわけではないし、商品を生産するわけではない、自分で消費者として市場に入る事もできないし、何よりお金を1円も持っていません。それでも毎日、一生懸命生きて、周りを幸せな気持ちにさせてくれます。これ以上に素晴らしいことってあるでしょうか。

 

あまりに会社でのプレッシャーが大きすぎて、新自由主義的価値観に押しつぶされていた私でしたが、ようやくこの本で、その呪縛から逃れることができました。この本ではさらに現在の企業が抱えている根源的な悩みにも切り込みます。

 

 

p142 ビジネスの世界に PDCAサイクルという手法があります。計画、実行、評価、改善を繰り返すことにより継続的に生産性を上げていくやり方であるとされていますが、

中略

私が思うにこれは特別剰余価値の獲得競争の劇画なのです。本来、技術革新があってそれで新たな剰余価値の獲得が計画できるです。しかしイノベーションが行き詰っているので順番を逆さまにして先に計画してしまえば後から技術革新についてくるだろうと。ですがそんなに都合よく技術革新のネタが現れるわけではないので無意味な計画が立てられることになる。こんなの無意味だとわかっていてもひたすらプランを立て続け改革を続けていくわけです。競争相手がそうやって必死だしているからこちらも必死で走らなければ競争に負けてしまうでも皆が同じようにして走るから大した差がつかなくて大した特別剰余価値も手に入らない、結局はみんなくたびれ果てるだけで何の得もえられません。得が生まれるどころか無意味な仕事が山積みになっています最近人類学者のデヴィッドグレーバーの著作が注目を浴びています。グレーバーが指摘してるのは「ブルシットジョブ」クソのような仕事という意味ですが・・・

 

 

 

まさに私が置かれている状況です。実現不可能とわかっていながら実行計画を立案せねばならず、それをやったところで成果は得られない。得られないと分かっているからやらなくて良い、むしろやらない方が良い=クソどうでもいい仕事になってしまう。そんなことを2,3年続けていると、ブルシットジョブに心が侵食されていってしまいます。いやいや、ブルシットジョブなんて言わないで、もっともっと世の中が豊かになると信じて仕事を頑張れ、日本中のみんなが頑張れば、失われた30年も取り戻せる!という声もあるかもしれません。そういった楽観論にはこのような言葉が続きます。

 

p212 日本の高度成長が終わった理由として、オイルショックがよく挙げられます。しかしより本質的だったのは農村の過剰人口に基づく労働力を使い尽くしたことでしょう。典型的な例が高度成長期に「金の卵」と呼ばれた若者達です。地方出身の中卒の少年少女たちが就職列車に乗って都会に行ってきて工事などで雇われていた彼らが高度成長を支えたと言われています。それが高度成長につながったのは要するに労働力として安かったからです。ところがこの労働力は次第に安くなくなってきます。経済発展段階の差に起因する地方と都会の甚だしい格差は地方の開発が進むことで是正されていきます。発展の度合いが全国で均等になってくれば甚だしく安い労働力がなくなるので、すすでに雇った労働者についても同じ日本国民なのだから同じ生活水準を享受する権利があるはずだということで労賃が高くなっていく。中略、アジアでは日本に続いて韓国や台湾が高度成長の波に乗りその後に中国が大発展し今は東南アジアで高い経済成長を実現されていますが、それらの国が成長できるわけもまた日本の高度経済成長と全く同じであり、それらの国の高度成長がまた日本と同じ理由でやがて終焉を迎えるでしょう。このように現実の経済を観察していくとイノベーションによって生まれる剰余価値はたかが知れているのだとわかってきました。資本主義の発展の肝は結局安い労働力にしかないのです。。みもふたもない話ですが日本の経済発展が頭打ちになって時代だからそういうのではなくて、海外も含めて経済発展の歴史を振り返ることで結局すべての国がそうだったのだという真実が見えてきます。

 

 

つまり、もう構造的に経済成長はしないのです。ただ目の前の仕事に集中していればどんどん成長できた時代はとうに終わり、周りの国はまだそういう状態なので、焦るかもしれませんが、資本主義の構造上そうなるのだから、もはや受け入れるしかありません。

 

この本が教えてくれたのは、まず「新自由主義的がすべての価値観ではないこと」、それと「高度成長を追い求めるのは原理的に無理ということを認めるべき」ということです。

 

毎日毎日無理なPDCAを回して非現実的な結果を追い求めることに心血を注ぐのは心にも体にも良くないことです。たしかに世の中にあふれるビジネスハウツー本を読めば、局所的なイノベーションは起こせるかもしれません。ある業界のニッチなところで少しの利益を出せる環境はまだまだたくさん残っていることでしょう。でも、新自由主義というのは利益の大きさと無限成長だけを評価する世界です。比較対象はオールドエコノミー、つまり銀行、自動車、建設、などの超巨大市場が大量労働によって生み出してきた剰余価値です。果たしてニッチなイノベーションで、オールドエコノミーに対抗できる価値を生み出せるのでしょうか。

 

最近はDXという言葉が持て囃されていますが、オールドエコノミーの間尺でニューエコノミーを図ると、「なんでそんなくだらないことをやるの」という結論になりそうな気がしています。だって、全く新しいビジネスで10億円を作り出すのは血反吐が出るほどの努力が必要です。一方、オールドエコノミーの王者、自動車業界は400兆円と言われています。そんな巨大市場において、為替が1%ずれただけで4兆円が生まれたり、消えたりするのです。さらに自動車業界のような実態経済ではなく、その裏で動いている金融市場はその比ではないのです。このような新自由主義の世界で、イノベーションによって成長させようと藻掻けるのは狂人か、本当の天才の2種類しかいません。私のような凡人が竹槍をもって資本主義経済の衰退に抗おうとするのは無理筋なのです。

 

上記のような概念的な議論の次はリアル世界を扱っていきましょう。最近話題の本「人新世の資本論」もとてもおもしろい内容でしたので、次回紹介したいと思います。

 

 

 

 

約2年ぶりの投稿

2010年から2019年2月まで続けていたブログでしたが、突然休止し、非公開としていましたが、名前を変えて再開しました。

 

過去記事もほとんど残っているので、読んだ本とか映画の内容は貯蔵されています。

 

なぜ止めていたかというと、仕事・私生活共にあまりうまく行っていなくて、「本読んで学んだ気になっても何も成長していないな」とか「映画観たから人生が変わるわけではないな」という感情になっており、あまりその辺に触れない生活に移行してしまったからです。

 

本を読まない代わりに、ゲームばかりしていました。去年から、オートチェスにハマり、FF7R、ワンダと巨像ポケモン剣盾、風来のシレンといったゲームに熱中していました。

 

今後、少しづつ書いていこうと思いますが、あることをきっかけに心境の変化があり、また本を読むようになりました。すると困ったことに、読んだ本の内容をすぐに忘れたり、話しているときに言葉が出てこないといった知能の劣化を如実に感じるようになりました。ただの加齢かもしれませんが、週に1回くらいは自分の脳に負荷をかけることをやらないとこのままどんどん劣化していくのかと少し怖くなったので、またブログを再開することにしました。

 

また、前までと同じように本の内容を紹介したり、映画の感想を書いたりしようと思います。よろしくお願いします。

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か

『ホモ・デウス』の衝撃を受けてから、最近人工知能に興味津々です。今の延長線上の世の中を想像するに、人工知能が全てを支配する世の中になっていくとしか思えなかったので。その理由は前回の投稿の通り。
 

 

mofumofuninaretara.hatenablog.com

 

 

というわけで人工知能に関する本。

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

AIの衝撃 人工知能は人類の敵か (講談社現代新書)

 

 

今回は呼んだのではなく、Amazonの新サービスAudibleで聴いた本です。やってみるとなかなか面白い。生活の中で本を読めない状況と言うのは結構あるもんです。超満員電車の中、夜中の犬の散歩中、車の運転中、お皿洗いをしている時等。そんな時間でも本を読めるということなので本好きの隙間時間にはもってこいのサービスかもしれません。

ラジオ、テレビ、動画配信サービスなんかもたくさんありますが、やはり本のクオリティというのはそれらとは一線を画します。NHKでもここまで濃密なAI特番は作れません。だって7時間もあるんだから!!

 

時間の有効活用という意味では大変すばらしいサービスだったのですが、いくつか難点がありました。

「ん?この話、さっきのあれと関連している気がする」と直感が働いても、その「さっきのあれ」までさかのぼるのがめちゃくちゃ大変です。本は新書一冊で7時間くらいあるので、どこの部分だったのか事後的に探すのにかなり時間がかかります。本であればパラパラめくっていけば、話の展開で、その前なのか後なのか一目で判断できるのですが。

 

さらに、読み飛ばしても良いところの判断が難しい。本を読んでいると半分以上超える頃、前提をもう一度確認したり、わざと繰り返し説明したりする箇所が出てくるものですが、Audibleだと、そういうところを飛ばせません。本であれば、目を横にずらすだけで次の話に移れるのですが、Audibleだとどこまで飛ばして良いのかが瞬間的に判断できないのです。なのでダラダラ長時間視聴するしかないのです。

 

まぁでも、新サービスとしては面白くて、最初の一冊目は無料で手に入るので、ぜひ体験してみてください。
参考になる箇所が何個かあったので、結局視聴後、本を購入してしまいましたが・・・。


著書、小林先生も人工知能が人間の能力をはるかに超えていくという見解を持っている方です。ロボットによって人間社会が乗っ取られるというSFチックな危機感ではなくて、人工知能が「現在人間が至高であると感じているテーマ」に入っていくことでその至高性が失われること、に強い危機感を持っておられるようです。これはホモデウスを読んで私が感じた「人は死んだ」という未来予想と重なるものです。

例えば将棋。人工知能が人間をはるかに凌駕する棋力を手に入れると、人間は「所詮将棋なんてくだらないゲームだから」と価値を低く見るようになるのではないでしょうか。どんなにやっても人工知能に勝てないゲームを人間たちはさらに追及しようと思うでしょうか。どんなに考えて、斬新な手だと思いついても全て人工知能に予見された手でしかないとしたら・・・。もうそんなくだらないゲームやめたら?とならないでしょうか。

 

さらに人間が感動する音楽を人工知能が作り出すとしましょう。あまりに感動的な音楽にある人が涙を流したとする。「実はあなたが感動するように人工知能が曲を書いて、あなたが感動するタイミングで人工知能が抑揚をつけて演奏しました」と言われて素直に感動できるでしょうか。人間の感情をもてあそびやがって、と激怒する人も出てくるのではないでしょうか。すると「所詮、音楽なんて娯楽だから」と言ってその価値を捨てさる人が出てくるかもしれません。

 

最後は人間そのものです。人間が存在の頼みとしているあらゆる創造性を凌駕されたその時。「所詮、人間なんてもともとただのアルゴリズムなんだよ」と人間が人間の価値を捨てる日がくるかもしれません。それが人間至上主義の破綻です。

 

Googleが日本の産業を牛耳る、とか。Pepperがあなたの家に入り込んで生活を改善していくかもしれない、という様なちょっとした未来予想も面白いですが、やはりその先は人間至上主義の破綻であることは様々な研究者の頭の中によぎっていることなのかもしれません。

 

いま、あらゆる場面で人工知能、AIが活躍しています。既に今の段階で人工知能なしの世界など考えられません(計算機だって一種の人工知能です)。ということは既に我々は人間至上主義の破綻に一歩一歩近づいているのかもしれません。

暫く人工知能の勉強を続けます。

人は死んだ  『サピエンス全史』『ホモデウス』 ユヴァル・ノア・ハラリ

人は死んだ。

この言葉が頭に浮かんだのは、話題の本「サピエンス全史」とその続編とされる「ホモデウス」を読んだからです。ここまで価値観を揺さぶられたのは大学時代にカールポパーの科学哲学に触れたとき以来です。どうやってこの感動というか、動揺を伝えられるのかわかりません。私の頭の中でもきちっと論理立てて整理されていません。でも断片と断片が浮遊していて、これをつなぎ合わせると大変なことになる、ということが確信としてあります。とにかく今の頭の中に浮遊している断片を言葉に表してみます。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福


まずは「サピエンス全史」の方に軽く触れます。


人類の誕生から資本主義と民主主義の発展までの過程を丁寧に紐解くことで、現代の我々も決して絶対的に正しい価値観の中で生きているわけではないことを気づかせてくれます。今目の前のことをよくするためにした活動が深化して拡大すると、どんな影響が起こるのか分からないまま、私たちは暮らしています。


日常的によく話に出るのは携帯電話です。携帯電話のおかげで待ち合わせですれ違うこともなくなったし、いつでも要件を伝える事はできるようになりましたが、逆に休暇中でも相手の要求に答えなければいけなくなりました。海外出張中でも、新婚旅行中でも、携帯電話でいつでも仕事が出来てしまう。便利な世の中にするために作られた携帯電話も本当に世の中の人々を幸せにしているのだろうか。これはサラリーマンのぼやき。



農耕も同様。食料を安定的に供給できるようになったけど、人口が増えて、定住地では病気が蔓延し、子供の死亡率は跳ね上がり、狩猟採集の時代よりも格段に労働時間が増えた。死亡率を上回る勢いで人口が増えるので土地を拡大せねばならず、隣の部族との土地の取り合いが始まり、組織と組織で大規模な殺し合いが起きた。農耕がなければ大規模な戦争など始めようもなかった。


車が発明され、安価で製造されるようになったことで、移動コストが劇的に下がり、遠方に出かけることも、地方の特産物を運ぶことも大変容易になり、人とモノが爆発的に循環するようになった。車社会を維持するために、車そのものだけでなく、部品製造、燃料、道路など様々な産業が大きく成長することになった。資本主義を支えているのは産業の王様、自動車である。一方、国際戦略研究所(IISS)によると、世界全体での武力紛争による2016年の死者数は15万7千人。それに対して交通事故死者数は130万人と言われる。人々が自動車によって得られる恩恵と自動車によって命を落とす悲劇を数値化して差し引きすれば、自動車の便益が算出される、そんな単純な話なのだろうか。真剣に議論さえしていない。だってどんなに人が死んだとしても、いまさら自動車をやめるわけにはいかないからだ。


P119 より楽な生活を求める人類の探求は途方もない変化の力を解き放ちその力が誰も想像したり望んだりしていなかった形で世界を変えた。農業革命を企てた人もいなければ穀類の栽培に人類が依存することを求めた人もいなかった。数人の腹を満たし少しばかりの安心を得ることを主眼とするささいな一言の決定が累積効果を発揮し古代の狩猟採集民は焼け付くような日差しの下で桶に水を入れて運んで日々を過ごす羽目になったのだ


ここまではよくあると言っては何ですが、教科書的な、ある意味理想的なリベラルアーツ本と言っていいでしょう。今の我々の生活がどんな風な経緯で形成されたのかを振り返って、今の生活を違った目線から見てみる。これは非常に面白い経験です。



ところが、この続編とされる「ホモ・デウス」の内容がすごい!!!!すごいなんてもんじゃない。天変地異です。今まで天だと思っていたモノが地面になっちゃうくらいの超弩級の衝撃本です。


ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来


きちんと読んでない人が、「この本によると、これから格差社会がより広まっていく」とか「日本が生き残るにはどうしたら良いのか」とかわけわかんないこと言ってますが、そんな内容の本ではありません。格差社会とか日本の生き残りとか、そんなことクソどうでもいいのです。副次的どころか副々々々々々々次的なことです。この本の主題は明らかに「人間至上主義の崩壊」です。





もう一度言います。この本は「人間至上主義が崩壊する可能性」を予知した本です。





大変重要なことなので、忘れないでください。
人間至上主義は崩壊します。







厳密にいうと非常に高い可能性で崩壊します。





これがどのくらいのインパクトがあることか。わかりますか??わからない??では順を追って説明します。ここからは「ホモ・デウス」の内容からかなり逸れますが、この本を読んで私が考えたことを綴っていきます。


まずはあの有名な言葉から。





神は死んだ。






あまりに有名なニーチェの言葉です。19世紀に科学主義が台頭してくるずっと前。言語が生まれ、意思疎通が出来るようになった3万年くらい前。人間は共同幻想、つまり物語・神話を共有するようになりました。なぜそうすることになったのかは分からない。でもみんなで共有するようになった。そうすることで人間たちは組織を作れるようになりました。一つの目的を共有出来れば、同じ目的に向かって歩調を合わせることが出来ます。歩調を合わせて組織を作れば、大型動物を狩ることも出来ますし、大きな建造物を作ることも出来ます。



目的を持てる、それはつまり理由が背景にあるということです。言い換えると、人間の行動に「なぜ」と聞くことが出来るようになったということです。


神話のおかげで、この世の中の目的、理由、仕組みを説明できるようになりました。


「なぜ最近、雨が降らないのか」
「神の怒りをかったためだ。怒りを鎮めるために、供物を捧げよう」


「なぜ空には綺麗な光が瞬いているのか」
「神が想像した世界だ。美しいのは当たり前だ。」


「なぜ私はここにいるのか」
「神が作ったからだ、神の意志ははかり知れないが、神が全てを把握されている」


「なぜ流行り病で人間がこんなに死んでいくのか」
「神の怒りだ。人間が増えすぎたためだ」


と言う風に。そこまで大きな疑問でなくても、リンゴがおいしい理由、この仕事を続ける理由、この町が出来た理由、あらゆる理由付けは神話によってなされました。宗教とも言います。キリスト教イスラム教も仏教もみんな一緒です。聖典の中に書かれている一言一句に、この世の全ての仕組み、理由が書かれているという共同幻想。この神話の中で人々は3万1900年間安寧の中で暮らしていました。







いや、嘘です。






安寧ではありませんでした。その暮らしは内実、危険で、苦しくて、惨めで、辛かったに違いありません。神に祈っても雨は降らないし、聖書の通りに暮らしても食べ物は増えないし、トーテムポールを作っても猛獣は襲ってくるし、お守りを貰っても病気は治らなかったからです。




前述した通り、人間は賢いので、少しづつそんな暮らしをよくしていきました。少しづつ目の前の暮らしをよくしていこうという営みが科学を生み出しました。




どうやら星は地球の周りを回っているのではなく、地球が星の周りを回っているらしい。動物同士を掛け合わせると違う形質を持った動物が生まれるらしい。病気になるのは目に見えない細胞やウイルスによるものらしい。人間は動物から進化した生き物らしい。




次々発表される科学の言説と今まで人間が信じてきた神話との間には大きな矛盾がありました。しかも、神話より科学の方が様々な説明がうまくついている。神話の通りに暮らしても暮らしは豊かにならないけれど、科学の言う通りに暮らせば楽しく豊かで便利に暮らせそうだ。最初は多くの反発がありましたが、人間は徐々に神話を捨てました。3万年間も信じ続けた神が消えていく。これが「神は死んだ」ということです。





神が死に、この世の中は無秩序で、破滅的な世界になるかと想像した人もいたはずです。でもそうはなりませんでした。神の代わりになるものが現れたからです。神がいた場所に何が居座ったかというと、科学と人間至上主義です。




科学だけではダメでした。科学はこの世の中のあらゆる仕組みを説明してくれますが、究極的な存在意義は与えてくれないからです。人を殺してはいけない理由も、拷問がいけない理由も、戦争をしてはいけない理由も、科学では説明できません。中心を人間に置くことでそれらの説明が一旦つくことになりました。人間は意思を持ち、知能を持ち、感覚を持ち、意識を持ち、学習する至高の存在である。なので人間を傷つけたり、失ったり、人間の意思を強引に曲げるようなことは悪である、というルールが浸透しました。いま宗教がある意味尊重されているのも「あなた自身があなたの選択で神を信じているのなら正しい」という人間至上主義の一つの成果です。人々は神を尊重しているのではなく、神を尊重しているあなた自身を尊重しているのです。


この人間至上主義というのはありとあらゆるところに浸透しています。音楽や芸術の価値は人々が感動するかどうかで計られ、経済は顧客の自由意志によって選択されるものが至高となり、教育は自分の頭で考えられるようになることを目的としています。すべてのテレビドラマ、映画、小説は人間がどう考え、どんな感情の動きがあり、どんな決断をしたかが尊重されます。カタストロフィの映画でも、小説でも、いつも最後は恋人や家族への愛が至高であるというメッセージが発せられ、我々は改めて人間の素晴らしさを胸に刻むのです。




当然、私が今まで考えてきたことも、教えられたことも、判断してきたことも、すべて人間至上主義の中にあったと言っていいと思います。自分の悟性を働かせて考え続けることが哲学であり、それがもっとも尊いことだと信じてきました。やりたいことのために転職したり、好きな人と結婚したり、嫌な人と離婚したり、子供を可愛がったり、虐待死された子供を憐れんだり。言ってしまえば、すべてが人間至上主義的行動であり、そもそも、それを批判したり、客観視したりする視座を持てるのかどうかすら疑問です。それだけ人間至上主義というのは生活に根付いたものなのです。




ところが!!!



人間至上主義の隣に座っていた絶対的な権威を誇る科学。その中の一分野、生命科学がとんでもないことを暴き出してしまいました。



人間の思考は脳の神経細胞に走る電気信号の作用によるものであることがわかったのです。人間の思考が物理現象の結果現れるものだと分かれば、あとは他のすべての物理現象と同じ。ある意思決定の際に発生した神経細胞の電気信号の発火ははまたある別の電気信号が原因で発火したものです。それはお腹が空いて血糖値が下がっていたのが原因かもしれないし、そう反応することで生き残ることが多かった遺伝子のある意味自動的な作用かもしれません。ダーウィンの進化論を疑っている人もいないでしょうが、進化論はアンチ人間至上主義に大きな力を発揮しています。恋愛は人間至上主義にとって至高の感情ですが、今目の前にいるあの人にこんなに恋い焦がれる理由ですら、進化論で論理的に説明できてしまうのですから。肌がすべすべ=疫病にかかっていない、体がムチムチ=子供を出産できるくらい体力がある、筋肉隆々=敵に襲われた時に守ってくれる、イケメン=他の異性にモテるということは自分の子供がモテなすぎて遺伝子が途切れるという可能性を最低化出来る、という風に。


人間の思考が電気信号による作用、つまり物理現象なのであれば、人間が何を考えて、どう行動するかはすべて数式で説明がついてしまうということです。それは非常に難解で複雑なアルゴリズムかもしれませんが、アルゴリズムである限りコンピュータと本質的には何も変わらないことになります。アルゴリズムであれば、再現性があり、予測可能で、コントロール可能であるということです。


それを裏付ける実験結果が世界で次々に発表されています。現代の生命科学の成果として、うつ病の患者の脳に電極を埋め込むことでうつを脱出させることもできるし、電磁場を発生させるヘルメットを装着させれば冷静沈着冷酷無比な戦場のスナイパーを作り出すこともできます。


人間の思考がアルゴリズムであることがわかれば、次に起きることは想像に難くありません。


ダイエットを決意したのにどうしても食べてしまうあなたに電極を埋め込めば、強烈な意思で食事制限をし、過負荷の筋トレをこなすようになるかもしれない。そんな健康促進サービスがあったら利用してみたいと思いませんか?朝起きて会社に行くのが辛い?だったらこの枕を使うと良い。毎朝スカッと目が覚めてウキウキ気分で会社にいけます、と言われたら使ってみたいと思いませんか?


さらに人間至上主義にとって都合の悪いことに、人間は実は自分自身のことをよくわかっていない、ということが心理学のあらゆる実験で明らかになってきています。思い出して物語る時の自分と、周りにいた人が語る自分が違う人間のようだと感じたことはありませんか?人間の考えなんてコロコロ変わるし、性格も思考も好き嫌いも変わっていくもの。自分がどんな人間なんて自分自身が一番わかっていない。でも、人間の思考はアルゴリズムなんだから、科学の力をもってすれば解明できてしまうのだ。


すでに企業は人間のパーソナルデータを取りに行っています。どういう行動を取る人は次にどんな行動をとるのか。最先端企業があなたの行動アルゴリズムを導き出している。Googleのディスプレイ広告もそう、Amazonのおすすめ機能も同様、Facebookはあなたの恋人よりもあなたの性格のことを理解しているらしい。



保険会社は次々健康増進サービスを提供し始めています。あなたがどのくらい運動し、喫煙し、健康診断でどんな結果だったのかを調べています。え!??健康診断の結果提出しないんですか?もったいなか!?と美人女優に言わせることで、さらに保険料を割り引くことで自らパーソナルデータを提供するように仕向けます。さらにウェアラブルアプリを提供し、何を食べ、何時に寝て、何歩あるいているのか計測しています。次に提案するのは「もう少し歩きましょう」「甘いものは控えましょう」という健康増進の提案でしょう。でも、あなたがそれを拒否したらどうだろう。アプリの提案を無視して、どんどん不健康になる。後悔するのはあなた自身。きっとあなたは病気になった後「なんでもっと強く注意してくれなかったんだ」と怒るでしょう。そこで前述した「きちんと運動して、きちんと食事管理ができる」サービスの需要が生まれる。このチップを頭に埋めれば、魅力的な身体になって健康に長生きできます、その魅力に打ち勝てるほど強固な自己を持ち続けていられる人はどのくらいるだろうか。


今話題の自動運転も同様。今は高速道路や駐車場の補助機能だけかもしれない。しかし、GoogleもTeslaもUberToyotaも目指すところは同じ。完全自動運転の実現だ。最初はA地点からB地点まで届けてくれるだけかもしれない。でもみんなが埼玉から東京、横浜から東京に向かうと言ったらデータサーバーの人工知能はどんなルートを案内するだろう。いつもの道路が工事中の日でも良い。いつものルートではなくて、こちらから回ったほうが近いですよ、と提案するに違いない。もっと言えば、今の時間よりももう少しズラしたほうが空いてます、ちょっとこの店でコーヒーでも飲んでから行きましょうよと提案する。自動運転AIが人間たちの行動をコントロールするようになります。だってその方が人間たちが心地よく過ごせるのだから。


休日にディズニーランドに行きたい?片道3時間かかって、園内でも6時間待ちですよ?だったらもっと空いていてあなたの嗜好にあった観光地をご案内しますよ!自動運転AIはそんな気の利いたサービスも提供可能です。つまり交通の最適化というのは生きる場所の最適化に向かう。全員が東京に住むよりは、ある程度地方に分散して住んだほうが合理的だとAIが判断したら・・・。仕事はネットとテレビ会議でできますし、エンターテインメントもあなたにあったものをご提案いたしますよ、だからもっと北の方に家を建てませんか??



SF映画によくある様な、AIが人間より賢くなって世界を征服してしまう、というシンギュラリティが起こるとは私も思いません。人間が暴走するAIを作るわけがないし、そんなやり方をするのは合理的でないから。

でも、AIが人間がよりよく生きるための手助けを素晴らしい段取りで提供し、最高の成果を上げてしまうと、人間は次第にそれに従う様になる。農業が自動化され、食物が自動生産されるようになる。工場も完全自動化され、完全自動運転の車が自動で生産される。食物が自動で運ばれる。自動車が走るための道路も自動建設機械が整えてくれたものだ。アルゴリズムが計算した「人間がもっとも感動するであろう映画」や小説、音楽が毎日自動配信される。人間が健康に健やかに暮らせるような献立をAIが考えて、ロボットが作ってくれる、自分がこうありたいと思う人間になる努力ができる様に脳のチップが電気を流し込んでくれる。それらのAIは壊れる前にどの部分を直したら良いのかアルゴリズムが判断し別のロボットが交換してくれる。もちろん、「より人間のために良いAIにする」という至上命題を叶え続けながら。AIが何より人間より優位に立てる点は教育コストが安いところです。人間は天才を育てるにもやはり20年はかかってしまう。でもAIは一度その概念を学習してしまえば、永久に記憶し続けます。だから過去のありとあらゆるデータと概念を駆使しして計算し続け、人間とは比較にならない速度で進化し続けられる。


やがて人間は、休日の過ごし方、ご飯の食べ方、運動の仕方、をAI管理されるようになる。ここまでくれば、人間に残っている仕事は残りわずかでしょう。おそらく、より楽しく毎日を過ごすこと、が人間に残された使命になる。でも、より楽しく暮らせるように考えてくれているのはAIの方だ。ここで人間ってなんだっけ?という問いが人間の中で生まれる。人間に何の価値があるんだろう??人間至上主義の中にあっても神がまだ密かに生き続けているように、AIによるデータ至上主義が蔓延しても、わずかに人間の価値は残るでしょう。でも、「え?神っていないでしょ?」と同じ仕方で「え?人間って要る?」という疑問が生まれてくると私は思う。



そして月日は経ち。当たり前に地球資源の限界が目の前にやってくる。どれだけ効率的にエネルギーを生み出す方法が見つかったところで物質は永遠ではない。太陽だって寿命はあるのだ。



人類は、というかAIはどうやって人類を生きながらえさせるか考える。このまま好き勝手人間を増やし続けて全員もろとも絶滅するのか、それとも別の方法を探すのか。それを判断するのは人間なのか、AIなのか。



人間は維持するのにコストがかかりすぎる。肉体が成熟するのに10数年、知能や精神は20年かかってやっと一人前。1日三回の食事を取り、運動をするスペースも必要、目的を遂行するだけでは精神が持たないので余興も必要、それで寿命は長くても100年ときたもんだ。一方、AIなら電力と少しの鉱物でいくらでも継続可能だ。自重も軽いので、宇宙を移動する時のコストが比較にならないくらい安い。地球を捨てて、別の生命維持可能な星を探そう、という時に、人類はきっとAIにその使命を託すことになる。人間みずからがAIに主導権を渡すだろう。自動でエネルギーを補充し、自動で鉱物を採掘し、自動でデータを増やしていくそのアルゴリズムが人間の次の世界の担い手になる。




ここで人間至上主義は消える。


人は死んだ。


人間の価値よりもAIとデータの価値が重くなった世界。



AIは人間が生活できない世界でも自己複製し続ける。過酷な惑星の隅っこで。エネルギーになりそうな物質を見つけ、そのエネルギーを燃焼しながら、ありとあらゆるデータをとって分析し続ける。誰も人間のいない世界。AIだけが星に散らばり、データを交信し続け、次の星を見つける作業を延々と続けるでしょう。それは100年単位の話ではなく、何万年、もしくは何億年単位なのかもしれません。ではそのAIは一体なんのためにデータを収集し、自己複製し続けているのでしょうか。そのアルゴリズムの命題は「次の星で人間を作れ!」なのかもしれません。でも、そこで生まれた人間はAIに生かされた瑣末な存在に過ぎないでしょう。彼らには何もできません。もう人間至上主義は終わったのです。これからはAIがひたすらこの世界を分析し自己複製し、何億年も何兆年も動き続け、この「世界が一体何なのか」を解き明かしてくれるのかもしれません。そう思うと、私は、気絶しそうなくらい、ワクワクしてきました。だって、この世界の本当の謎を解き明かす唯一の可能性を見つけることが出来たんだから。今の人間では糸口すら見つけることが出来なかった、この世界の形而上学的問題を。



というわけでこれからはAIをどれだけ進化させるか、に人類の目的は収斂される、と私は思います。
この本の著者がこういう結論を書いたわけでは全くありません。あくまでも私の考えです。
皆さんはどう思いますか?

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

最近、新発売の棚に並んでる本書。死に関する本は結構読んできたし、自分なりに死との向き合い方に決着をつけた気になってますが、つい読んでしまいました。


結論から申しますと、ふつうに面白くない本です。これはすぐに書店から消えるでしょう。死とは何かについて考える本ではなく、生きることのどの辺に価値があるのかを考察した本と言えます。特に真新しい考え方はみつかりませんでした。


この本で考えさせられたのは時間について。自分は80年で死ぬとしても、この世界は続いて行きます。子供、孫、ひ孫、さらにもっと先の未来だってある。地球だって必ずなくなる。その後だってこの世界は続いていく。ただひたすら続いていくのだ。そこには人間は誰もいない。この世界を知覚できる生命体が全く存在しないとしても、世界はひたすら続いていく。


だから究極的にこの世界がどこに向かっているかは分からない。子孫を残すために命があるわけでもない。なぜか存在している自分とあなた。この奇跡には何度驚嘆してもし過ぎることはない。いつか終わるこの人生、永遠に続く世界、この対比に、あまりに大きな落差に眩暈がする。


誰も答えが分からない、どこにも答えは載っていない。でも生きている。日々の仕事に没頭するのはこの難問から目を背ける為なのかもしれない。