モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

我々はなぜ間違えたのか『現代経済学の直感的方法』 長沼伸一郎

ビジネス書大賞2020 知的アドベンチャー部門 特別賞を受賞した本です。

 

 

現代経済学の直観的方法

現代経済学の直観的方法

 

 

この本はめちゃめちゃおもしろいです。万人におすすめ出来ます。特に経済学を体系的に学んだことのない方、選択科目で少しだけかじった程度の方、毎日仕事に邁進しても全然幸せを感じられない方、に良い処方箋になるかと思います。

 

著者は経済学者ではなく、物理学者・・・?でもないのかな。教授職や公的研究職についている方ではなく、私的に研究世界を切り開いている方のようです。

 

文体が実に軽妙で、日本昔話を読んでいるような気分にさせてくれる一方、物理学的知見から切り込まれる現代経済の洞察は文字通りラディカルで、日常世界の固定観念を一新させてくれるような鋭さを持っています。

 

付箋を貼った箇所が20箇所以上あるのですが、特に印象深かったテーゼを紹介いたします。

 

P18資本主義経済が現場の高度を保つ際の浮力はそのうちの4/5を飛行船のように船体自信が発生する浮力であるが、残りの1/5は言わば翼の揚力によるものであり、止まった状態では全く発生しない性格のものである。つまり、現在の状況では経済が現場の位置で静止しようとして前進を止めたなら即座に浮力の1/5が消失してしまうことになる

 

 

 

これは日本経済全体の中で消費と設備投資の比率が4:1であることから導き出せる結論です。設備投資というのは今後もっと消費が増えるであろうという期待から使われるお金です。その割合が全消費の1/5を占めているという衝撃。何を隠そう私が勤めている商社業界でもBtoBビジネスが売上の殆どを占めておりまして、BtoBというのは基本的には生産設備を増強したり維持したりするためのビジネスですので、飛行船で言うところの揚力みたいなものです。なので、もし我々が無限の経済成長を諦め定常経済に移行した瞬間、我々は翼による揚力を失いGDPの1/5を失うことになります。それは現状貧困に苦しんでいる人を見捨てることになり、夢見る若者の将来を奪うことも意味します。だから我々は毎年毎年今期比+○%成長などという予算を作成し、無謀なビジネスに挑戦しつづけては疲弊しているのです。

 

P93 農業というのは他の産業に比べて需要が本来あまり伸びないという特性を持っている。例えば収入が2倍になったからといって人々はジャガイモや人参を今までの2倍食べるようになるだろうか。農業の弱点というのは実にここである。人間の胃袋の大きさに限度があってどう努力したところで人間は1日1トンのジャガイモを食べるようにはならないという現実がその需要を固定的なものにしているのである

 

農業経済が工業経済に勝てない根本的な理由がこれ。そしてこのことが南北経済格差の根本的な原因なのです。ちょっと説明します。

 

A国は100の労働力を投下すれば車10台、じゃがいも50個作れるとします。

B国は同じ労働力で車1台、じゃがいも20個作れます。

 

これはA国のほうが車においてもじゃがいもにおいても絶対優位に立っているのですが、両方の国の生産性の合計を最大化するにはA国が自動車を作り、B国がじゃがいもを作るのが最も合理的な解となります。これはB国からみてじゃがいもが比較優位を持っていることになります。

 

なので、A国もB国も納得してそれぞれの比較優位なものを生産するのですが、ここで上記の問題が起こるのです。車は一人が2台も3台も持つことができるし、自然人だけでなく法人が所有する場合もあり、まだ1台も保有していない人たちに供給していく素地がいくらでも残っています。さらに車を製造したノウハウはエンジンを発電機に転用したりとか、バス、トラックを作るとか、様々な方法で需要のあるところに転換ができるのです。一方でじゃがいもは「絶対に必要なもの」です。※ここで言うじゃがいもは食料全般の比喩と思ってください。今現在、じゃがいもを持っていない人はいません。なぜならじゃがいもがないと生きていけないからです。しかも、今後じゃがいもを2倍、3倍食べるようにもなりません。人類が2倍、3倍に増えれば別ですが、そうなったところで作地面積にも限界があるので、そう簡単に生産を倍々ゲームで増やす事もできません。さらに、車というのは生産にノウハウが必要なものなのでA国が独占出来ますが、いわばじゃがいものようなものは誰でも作れるのでC国が生産に加勢してきます。すると一気に需要よりも供給が高騰して、価格が下がることになります。A国は自分で車をちゃくちゃくと作り、生きていくのに必要なじゃがいもはB国、C国に作らせ続ける、というのが南北経済格差の問題なのです。南北格差が埋まらないのはB国やC国の国民が怠惰なのではなくて、構造的にA国(先進国)が途上国を途上国のままにさせようとする力学が働いているためなのです。でも、これはA国に悪意があってやっているわけではなく、B国にとっても、C国にとっても、それが経済合理的な選択だったのです。その時点では最も合理的な選択である場合でも、長い歴史でみると全く合理的でなかった、というのは実は資本主義経済の最も嫌らしい特性なのです。このことはあとでも触れていきます。

 

P356 もしビットコインが世界の通貨の主役になったとすればそれは電子的な世界の中に生まれる一種の新しい金本位制度の世界なのである。つまりそれは金本位制度の強みも弱みも同時に引き受けてしまうことになり、金本位制度の限度がすなわちビットコインの限界なのである。

 

 

 

つまりこれはビットコインが世界の通貨の主役になることは絶対にない、という断言です。

 

通貨というのは誰でも簡単に発行できるものであってはいけません。当たり前ですよね。紙に数字を手書きしたものが通貨として通用するようになれば、世界中一瞬にして超インフレに突入します。(このルールが始まった瞬間、手元のメモ帳に1000兆円と書いて、あらゆるものを買いまくるでしょう、お店側も負けじと0を追加しまくって全く決着がつかなくなると思われる。)

 

ここで私の疑問なのですが、通貨というのはいい感じに増やせないと超デフレ化するが、分割できればデフレ化しないのでは?金本位体制の場合、実態のある金が後ろ盾にあったので、金の分割という物理的限界がのしかかってきましたが、bitcoinは単位として0.0000001でも可能です。ということは実はbitcoinの価値を上げることで経済成長に追いつけるのでは、という仮説が思いつきます。

 

例えば通貨の発行量が100円しかない村があったとして、パン屋と農家だけしか家業がないとする。パン屋は農家に1個1円で100個パンを売ります。パン屋はその100円で農家から小麦を買います。これだけで経済が回っているわけです。しかし、農家とパン屋で出産ラッシュ、一気に人口が2倍になったとしたらどうでしょう。小麦もパンも単価が半分になります。様々な産業が生まれ、経済成長すればするほどお金の価値が上がっていき、モノの価値が下がっていく。なのでパン1個0.0001円になるかもしれない。でもそれで経済は原理的には回るわけです。ちょっと単位の扱いが不便だなと思ったら、すべての貨幣の単位を10000倍にする、と決めればいいわけです。貨幣なんて記号ですからそれでも良い。

 

ということはBitcoinは改ざんが出来ない上、金本位体制の欠点も補った完璧なシステムなのでは?とも思えますが、これが違います。Bitcoinを受け渡しするときに行われる台帳への記入処理、いわゆるマイニングですが、この行動のインセンティブBitcoinの発行なのです。そしてBitcoinの発行上限は2100万Bitcoinと定義されているので、最終的には報酬が送金手数料だけになる、という致命的欠陥を抱えています。送金手数料が数百円であれば、だれも大規模なマイニング処理なんてしませんし、送金手数料が何百万万円になれば、だれも通貨として利用しません。この問題を解決しない限り、誰もBitcoinを貨幣として使えないので、Bitcoinは絶対に消滅します。

 

しかし、それでも価値が上がり続けるのがこの世界の面白いところで、私の見立てではBitcoinが消滅する前に、マイニング業者が現金化を企み、自分で価格を釣り上げているのでは、と考えています。だって彼らはいずれ紙くずになるデータの掘り起こしに何億円もすでにつぎ込んでしまったわけです。いま売り抜けても赤字。なのでマイニング事業者が今までのコストを回収してあまりあるくらいに価格を釣り上げようとしている、それに乗じて、さまざまなマネーが流入してきている、と。そうでないと説明が付きませんから。

 

 

Bitcoinは一つの時事問題として、理解すればよいのですが、問題の根本はここからです。

 

 

p373 世界の経済を見ても Google Amazon に代表されるごく一握りの超巨大企業だけは栄えており、それらだけで統計を取れば世界経済そのものは間違いなく繁栄しているのである。そのためこれらが衰退なのか繁栄なのかは一言で言えないことになり、そこでこういう一筋縄ではいかない状態を「経済が(巨大企業に)縮退している」と表現しようというわけである

 

 

 

縮退という概念はネットで検索すれば下記の長沼氏の記事がヒットします。

toyokeizai.net

一言でいうとイオンが出来て町の商店街が潰れることです。これは様々な箇所で起こっていて、もっと抽象化していうと希少性の高い状態から低い状態に移行することで利益を絞り出す経済構造、ということです。3個の商店街がそれぞれ独自性を出してなんとか町を回していた、でも資本主義というのは前述の通り、無限の経済成長を追い求めないと墜落してしまう仕組みなので、もっともっと成長しないと行けない。でも商店街を広げるのも無理だし、新しい需要もない、唯一残された道はでかいモール街に富を集中させて、低コスト、低価格、を実現すること。そうすることで商店街は潰れるが、総体としては富は増えたことになる、と。でも商店街の独自性はなくなり、世界中が似たようなモール街になってしまったと。

 

p386 短期的願望などが極大化した状態で進むことも退くことができなくなり、回復手段を失ったのの半永久的にそれが続くようになってしまっている状態をコラプサーと呼ぶことにしよう

 

 

p399 それにしても我々は今までそうしたことは放っておけば良い状態に回復すると甘く考えてむしろそれを推進すれば富まで引き出せるのだから二重の意味で善だと錯覚しブレーキをかけるべきところで逆にアクセルを踏み込んできたようである。一体どうしてみんなが一斉にそんな大きな勘違いをしてしまったのか一見すると不思議なほどだが、しかしここで一つの仮定を無理矢理導入してしまえばこれらの話は全部正しいことになるのである。その仮定とは「部分の総和は全体に一致する」というものでこれは少し抽象的で分かりにくいかもしれないが先ほどの短期的願望と長期的願望で考えればよくわかるつまり現代の資本主義社会では大勢の短期的願望を集めて行けばそれは長期的願望に一致するということが一種の興味となっているのである

 

 

p405高度な文明とは大量のエネルギーや情報を使うことでより大きくより早くより快適になることだと錯覚してきたのだがむしろ真に高い文明とは人間の長期的願望が短期的願望によって駆逐されるのをどう防ぎ、社会のコラプサー化をどうやって阻止するかというその防壁の体型のことを意味していたのではないか。

 

 

 

ここが本書の肝です。短期的願望を推進してきたことによって長期的願望が損なわれてしまった例は現代社会でそこらにあります。まずは少子高齢化社会。少子化が進む原因は万国共通、女性の教育充実と社会進出です。女性の教育に時間をかけ、ビジネスで活躍してもらうことは単純に素晴らしいことのはずです。女性もそれを望んでいたわけですし、人類全体がそうあるべきだと思っています。でも、人間は社会的存在である前に動物なので、生殖の優先順位が下がってしまい、結果、日本全体が衰退する、という結果を招きました。年金問題も同様です。誰でも健康で長生きしたい。治安を整え、病気を予防し、健康食を安く手に入れることができるようになった。その結果、人が死ななくなり、働かない老人を若者が支えるという社会構造を維持できなくなってしまった。待機児童の問題も同様。子供は祖父母と一緒に育てれば良かったのです。でも、育児方針に口を出してきたり、昔の慣習を押し付けてきたりが、うざかった。だから核家族化が進行して、自分たちだけでは子供を育てられなくなった。未婚問題もそう。会社で同僚を飲みに誘えなくなった。プライベートな話は一切できなくなった。それはうざかったから。好きでもない異性に詮索されるのをみんなが嫌がった。だから社会はそれらを防止する方針を取った。その結果、社内恋愛が激減し、未婚の男女が増えた。前述した南北格差もそう。その時は最適解だと思って農業と工業のそれぞれ得意分野に注力することにした、その結果、農業側は這い上がれない世界になってしまった。地球温暖化問題もそう。物質的不足を解消すれば、人類全体が幸せになると思っていた。資本主義をぐるぐる回転させれば、モノで満たすことが出来た。人間の欲望に応じて活動することが最適解だと思っていた。でも、地球資源を蕩尽することで、逆に現人類と未来の人類を破滅させる事態を招いてしまった。

 

こういうことがいろんなところで起きた。間違いなく世界は少しづつ良くなっていると思っていた。現状に不満をいうと「だって、それを望んでたんでしょ?だったら不満を言うのはおかしいよ」と反論されてしまう。でも、局所的な合理的判断が全体の最適解になるわけではない、ということはそろそろ我々も理解しなくてはいけない段階なのだ。

 

では、短期的願望を追い求めたせいでコラプサーに落った我々人類に救いはないのか。最後に著者はこう言います。

 

p426 人間は外面的な幸福それ自体は吸収することができず人間の心の中で想像力という酵素が作用することで初めて吸収できる状態になる。中略、ここでいう想像力という概念は可能性という概念をもその中に含んでいるが今述べたことも想像力という概念を狭く解釈して可能性という言葉で置き換えるともっとよく理解される。可能性とは現在それがまだ実現していないからこそ可能性というのであってそれはその時点では想像の中にしか存在していないし全てを実際に手に入れて可能性が塗り潰され終わった状態よりもまだ何も現実には手にしてないが可能性の中で莫大な資産が眠っている状態の方が至福感に満ちていること多くの人が感じることである

 

 

 

我々は欲望のままに、資本主義の車輪の上に乗っかり、物質的な豊かさを短期的に求めてきましたが、それで本当に幸せになったと言えるのでしょうか。本当の至福というのは、まだ現実化していない可能性を追い求めているその状態のことではないのか。これが資本主義の限界を迎えた、今後の社会を生き抜くヒントになるかもしれません。奇しくもMr.Childrenの新曲のテーマと重なります。我々が本当に追い求めているのはもう物質でも、富でもない。新しい「可能星」なのかもしれません。

 


Mr.Children 「Brand new planet」 from “MINE”