モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

仕事観の変化と人生観の変化

いい歳して病んだ感じの投稿が続いていますが、決して鬱病になった訳ではありません。むしろ毎日、会社に行くのが楽しみで仕方ないくらい。休日は休日で友達と会うのが嬉しい。すごく充実しています。

最近、仕事観というか人生観が180度変わったと自分で感じるのです。何かでガラッと変わったとかじゃないのですが、あるネットの記事とあるドラマを見て、自分が変わったということに気づかされました。

まず一つ目はこれ。「ちきりんは何故これほどまで必死なのか」という記事です。

孤独とは不幸である。本当にその通りだと思う。人間がまだ動物の時代から、脳がそのように感じる様、プログラムされているに違いありません。周りと同化していない時、その生き物は生存競争上非常に不利な立場に追いやられる。常に死と隣り合わせな状態が不幸でなくて何だろう。

私の半生を振り返ると、同化できなかった思い出ばかりがよぎります。周りからみると、そんなことどうでもいいだろ、っていうような差異なのかもしれないけど、まだ心に傷跡を残しているくらいだから、同化できなかった時のストレスは、相当心身にダメージを与えたんだと思う。

一番古い思い出は小学生の時。クラス全員がハイパーヨーヨーを持っていた。でも自分ひとりだけ持っていなかった。別に両親が厳しくて、買ってくれなかった訳じゃない。全然欲しくなかった。周りと合わせるのが癪で、意地でもやりたくなかった。大流行した「ポケモン言えるかな」登下校中も休み時間中も全員が歌ってた。でも私は絶対に歌いたくなかった。こんなバカバカしいことに巻き込まれるのが我慢ならなかった。高校2年3年の頃、とにかくクラスに溶け込みたくなかった。こんなアホたちと自分は違うんだと言い聞かせ、文学に耽っていた。社会人4年目。20人いる部署の中で、ゴルフコンペがあった。やらないのは私ひとりだけだった。全員が同じ方向を向いている感じが不気味で仕方なかった。みんなに合わせるよりも自分のやりたいことに自分の時間を使いたかった。やりたくもないことに費やせるほど人生は長くないと思っていた。端からみたらバカバカしい話ばかりだと思う。でも本人にとっては全て死活問題だった。

当時は、”自分の気持ちを一番大事にしよう、無理して合わせる必要はない。自分は自分だ”と言い聞かせてたけど。本当はとても辛かった。どのタイミングもいつもいつも辛かった。ハイパーヨーヨーをやって、ポケモン言えるかなを歌って、クラスでアホになって、社会人でゴルフをやれれば、どんなに楽だったろう。そんな想像を膨らませない日はない。普通にみんなが好きなものを好きでいられて、みんなと同化出来れば、それだけで幸せになれるような気がした。

二つ目は「残念な夫」というドラマ。主人公の先輩の娘が塾をやめてピアニストを目指そうとするのですが、お母さんが大反対。主人公とお父さんは娘の夢を応援しようとする。よくある展開です。今までの私なら、”空気なんて読まず、自分のやりたいことをやれ、一度きりの人生に我慢は不要!”と思っていました。でも、今は考えが変わりました。

人間はいろんな方法で幸せになれる。自分のしたいことを自分のしたいようにする幸せ、というのは確かにある。限られた人、飛び抜けた才能のある人だけが享受できる幸せ。たしかにそれは大変素晴らしい。努力して、手に入るに越したことはない。でも、誰かと違う生き方というのは、それだけで孤独なのです。それだけで不幸の種を背負うことになるのです。『耳をすませば』でお父さんが”人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ”と言っていたのが思い出されます。自分が何をしたいかとは別次元の話として、”誰かと一緒に生きていく”っていうのも、もう一つの最大の幸せなのではないかと私は最近思うのです。なんとなく受験して、なんとなく大学行って、なんとなく条件の良さそうな会社で言われた通りに働く。一見、主体性皆無のくだらない人生に見えます。そんなの奴隷と何も変わらないじゃないか!という声が聞こえてきそう。でも彼の周りには、彼の理解者がたくさんいる。一緒に苦楽を分かち合う仲間がいる。それだけでも掛け替えのない素晴らしいことなんじゃないかと思うのです。

一つ例をあげます。企業の社長というのは確かにやりたいようにやれますが、孤独です。なんで孤独なのか、それは自分と同じ境遇の人がひとりもいないからです。替えが効かないということは、彼を理解できる人がひとりもいないということです。芸術家もそう、アスリートもそう、芸能人もそう。彼らは才能によってかけがえのない存在になったばかりに、孤独なのです。一方、どこにでも代わりのいるどうでもいい人たちはそうじゃない。そういう人たちは周りに同じような境遇で、同じような気持ちで生きている人が沢山いる。彼らと想いを分かち合うことができる。孤独でない喜びって、意外とバカに出来ないと私は思う。

現に今私が会社が楽しいと感じるのは、仲間がいる気がするからです。別に仕事の内容が楽しいわけではありません。今にも吹き飛びそうな仕事を細々とやってます。上手くいかないことばかりです。でも隣には同じ目標を掲げて、プロジェクトを引っ張って励ましてくれる先輩がいる。前には汗だくで何とか事態を切り開こうとしているオッサンがいる。違うプロジェクトだけど、目にクマを浮かべながら、夕食に誘ってくれる先輩がいる。0日3日の海外出張を週2回やって、部下達の想いを叶えようとしてくれる上司がいる。いつもニコニコサポートしてくれる事務職の女性がいる。こんなに必死になっている彼らを放っておく訳にはいかない。やっぱりこっちも手伝いたいし、みんなうまくいってほしい。目の前の仕事だけでなく今後の彼らの人生が幸せであって欲しいと思う。仕事の素晴らしさってこういうところにあるんだとようやく分かりました。たしかに自己実現の場ではないかもしれない。この仕事が自分の生きた意味や、本当の自分を実現してくれるものでは決してない。でも、人生は自分のやりたいことのためにだけにあるのではない、そんな気がする。誰かと一緒にいる、それだけで人生は十分生きるに値する。誰かと働く、それだけで十分だ。それ以外に何がある。

別にピアニストを目指すな、とかちきりんみたいに独立をするとろくなことがない、と言いたいわけではありません。みんなと同じような人生を、誰にでも代わりがつとまるちっぽけな人生を、一緒に過ごす誰かがいてくれる幸せ、それだって自分の夢を叶えるのと同じくらい幸せなことなのではないか、と言いたいのです。

嫌な奴もいる。分かり合えない日もある。自分が何を求めているのかさえ分からないことばかり。それでもあなたと一緒にいたい。

誰に訊いたって こうだって 欲しい答えなんかないんだろう だけど触れ合って話したい 夢は同じかもしれない 玉置浩二『愛がある』

明日、入籍してきます。誰かと一緒に生きる喜びを噛み締めて・・・。