モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

ドッグヴィル

ドッグヴィル プレミアム・エディション [DVD]/ニコール・キッドマン,ポール・ベタニー,クロエ・セヴィニー
¥4,935
Amazon.co.jp

ちょっと凄すぎる映画を観てしまった。 舞台はロッキー山脈に囲まれた人口.23人の村ドッグヴィル、人々は穏やかだが、廃坑後は貧しく暮らしており、排他的な村社会を形成している。そんな、彼らに対して開かれた道徳性を説きたいと思っている、村の青年トム。彼は村で唯一の医者の息子で作家志望。トムの道徳に関する演説には村人みんなが辟易としており、なかなか社会に対して心を開かない村人たちであった。 そんなおり、一発の銃声が山々に響き渡り、二コールキッドマン演じる美女が村に迷い込んでくる。ギャングに追われているという彼女、トムは彼女に一目ぼれし、部外者の彼女を受け入れることが村人たちの道徳性向上にもつながると思い、村を挙げて彼女をかくまうことを提案するのだが・・・。 この映画のすごいところ ①舞台セット 物語が繰り広げられるためのセットはロケではないのだ。なにもない空間にチョークで場所がかかれてある、それだけなのだ。トムの家、とか。扉はなく、ところどころに屋根やポストのようなものだけが置いてある。そして、その空間も上にも横にも広がりがなく、どこかの体育館のような狭いものだ。おそらく、この狭い空間は村人たちが生きる世界を表している。クモの世界には自らの糸と獲物を感知する感器官しかないように、村人たちにはこの閉ざされた空間以外の世界はない。鑑賞者が感じる息苦しいほどの閉塞感はそのまま村人たちが生きる世界の全体像を表象している。そして、扉や壁がなく、彼らの生活が鑑賞者からすべて筒抜けなのは、村の厳しい監視社会を表現している。誰が何をしているのか常にみんなが把握しており、全体行動から離脱することは絶対に許されない。そんな内向きの閉塞感と解放感がこの映画に浸透している。 ②狂気 前半の村人たちの善意と後半の変貌ぶりは狂気としか言いようがない。そして、それがものすごくリアルなのである。これはこの村だけに限らず、学校や会社という小さな組織で毎日を過ごしている誰にだって向けられる狂気なのである。それが身の毛がよだつほど怖いのだ。ちょっとした認識の違いからすべての歯車が狂い、善意の輪が悪意と残虐の螺旋に変貌する様は、見事としか言いようがない。状況は何も変わっていないにもかかわらず、人々は何となく不安や疑心暗鬼を勝手に増幅させ、身を案じ、可愛い自分自身のために、部外者を傷つける。彼ら特別悪い人間なのではない。普通の人たちがこうなるから怖いのだ。それは時に子供さえ・・・・。子供の天使性や無邪気なさまを綺麗に描く作品は数あれど、ここまで子供の残虐性と自己愛を真正面から描いた作品(映画、小説含め)を今まで観たことがない。でも、無邪気な分だけ残虐である場面というのはあり得るのだから、すごく真摯な態度だと僕は思う。ものすごく評価したい。 ③エンド この映画の終わりは人間の終わりである。あまりに醜い人間の清算である。でも、エンディングロールは何とも軽快なポップに世界中の人間の生活を取ったフォトアルバムが流れる。これにはやられた。 人間の多様性にただ感嘆とするしかない無力感を突き付けられた。 すげぇ映画だった。 ここまで善良でどこにでもいる貧しく慎ましい人間たちの暗部をえぐった作品はなかなかお目にかかれない。最高怪作だと思う。 ドッグヴィルはどこにもである。いまわれわれが生きている社会がホールの中でチョークで線引きされただけの、内向きに解放されたドッグヴィルなのだから。 絶望するほど怖い。 この監督の作品は全部観よう。