モフモフになれたら

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あの根源的問題について④

引き続き、木田元先生の「反哲学入門」から、根源的問題について深堀していきたいと思います。

前回書いた通り、デカルトによって人間理性が超自然的な立場から自然のうちに何が存在し、存在しないかを規定する原理が導き出されました。近代哲学はこの世界認識方法を基本原理として、その後も様々な哲学者がブラッシュアップしていきます。中でも代表的なのはカントです。

P178 もしわれわれの認識しているのが、われわれとは無関係にそれ自体で存在している世界(物自体の世界)なのだとしたら、元々その世界とは無縁のわれわれの理性の中からくみとられてきた理性的観念を使って得られる理性的認識がその世界の存在構造に一致するはずはありません。しかし、もしその世界がわれわれの理性の作った世界だとしたら、そうした一致が成り立っても不思議ではありません。中略、つまりわれわれの認識している世界がわれわれに現れ現象としている世界(現象の世界)であり、与えられた材料が人間理性に特有の形式に合わせて加工された世界なのだとしたら、その形式的構造に関して一々経験してみなくても、われわれ人間理性の認識能力を調査してみることによって、先天的につまり確実に知ることができても不思議ではないことになります。

P180 つまり「物自体の世界」に対しては、われわれの認識能力はまったく無力ですが、話を「現象界」に限るなら、少なくともその形式的構造に関しては、一々経験して見なくても普遍性と客観的妥当性をもった理性的認識を行うことができることになります。そして、現象界とは実は自然界に他ならないのですから、人間理性は自然界の形式的構造の創造者だということになります。

P181 カントの考えでは、われわれが認識するのは、「物自体の世界」ではなく「現象界」であり、これは人間の認識能力に特有の制限を通り抜けて現れ出てきた世界なのです。

P183 「原因と結果」の関係、つまり因果関係も、ものそれ自体のあいだに存在する関係ではなく、われわれが現象界を構成するために使う主観的形式なのであり、したがって現象界に現れてくるすべてのものが因果関係の網目に組み込まれているのです。

このようにカントはありとあらゆるものを物自体と現象界に分けて、われわれの世界認識を説明しました。その中でも幾何学や数論などの理性的認識体系と、神学や形而上学といった確実性を持たない体系とを分かち、神について理性的に議論すること自体を無効にしました。こうして人間理性vs物自体という世界認識の基本構造が強化されていきます。「元々その世界とは無縁のわれわれの理性の中からくみとられてきた理性的観念」という考え方が、そもそも「人間」と「自然」は異なるという前提/認識から生まれているのがポイントです。ここに近代哲学の奥深いズレがありそうです。

カント哲学によって、自然に対する科学的認識方法が裏付けされ、理性による自然の技術的支配が約束されましたが、そこにはまだ人間がまったく関与できない物自体の世界が厳然と立ちはだかっていました。カント哲学までは、人間理性の限界がきちんと示されていたのです。最後のフロンティア、物自体の世界を「人間」がどう踏み込んでいくのでしょうか。ここで登場するのがヘーゲル。彼が「絶対精神」という概念を持ち込み、1000年以上、人間が踏み込めなかった深い森を圧倒的な自信を持ってバッサリ切り崩していくことになります。

ヘーゲルは、精神は世界から一方的に認識を押し付けられるものではなく、主体の「労働」によって逆に世界に働きかけることができる、つまり精神の側から世界を変えていくことができると主張しました。

P197 精神がその労働によって世界の諸力所領域を次々に自分の分身に変え、もはや精神に立ち向かってくるような異質な力が何一つなくなった時、精神は絶対の自由を獲得し、いわば「絶対精神」として顕現することになるのです。

こうして1800年代にプラトンから誕生した超自然的世界認識を基礎とした近代哲学が、世界の全てを説明し尽くしたのです。いや、説明しつくせるという信憑を人々に与えたのです。ヨーロッパの人々にとって、この世のすべてが認識可能になり、この世のすべてが人間のための加工物として利用可能になりました。人間理性は自然とは隔絶された絶対的地位、ある意味神をも超えた地位を得ることになったのです。けれど、そんな絶対王者の人間たちが暮らすヨーロッパに待ち受けていたのは圧倒的なニヒリズムでした。なぜ、全てを手にしたかに見える人間たちはニヒリズムに陥ったのか。

P224 言ってみれば、そんなものはもともと存在していないのに、そうしたありもしない超感性的価値をあると信じ、それによって逆に感性的な生を抑圧しながら、ありもしないそうした価値を目指し営々と文化形成の努力を続けてきたのですが、いくら努力してもそうしたありもしない目標に到達できない徒労に気づいた時、虚しい虚無的な「心理的状態」に陥った

ニーチェは気づいてしまったのです。超感性的価値、かつての哲学者がイデア、神、理性、精神と名付けた超自然的なもの、などこの世にない。ないものに立脚して。この世を俯瞰しても虚しいのは当たり前であると。このような世界認識はプラトンから始まり1000年以上の歴史で練り上げられたもので、ヨーロッパ社会に深く根付いてしまっています。ニーチェはこの問題をどう克服しようとしたのでしょうか。

P228 もはや残っているのは、この感性的世界つまり自然だけですから、そこにもとめるしかありません。中略、超自然的原理がことごとく否定された今、自然はふたたび自分自身のうちに生成力をとりもどし、おのずから生き生きと生成していくものなっています。ニーチェは、新たな価値定立の原理をこの生きた自然ともいうべき感性的世界の根本性格、つまり「生(レーベン)」にもとめるしかないと考え、それを「力への意志」と呼びます。

ニーチェはこの「生」をより強く大きく高揚するためには、芸術が必要であるという理論を展開していきます。自然科学でも、哲学でもなく、論理を超えた「芸術」が何よりも大事というのがかなりセンセーショナルです。世の中をすべて人間的理性でロジカルに説明可能としてきたヨーロッパ世界にとっては、ニーチェのこの思考は革命的で、逆説的で、ものすごい破壊力を持ったものに聞こえたことでしょう。ただ、もともと人間の存在を自然から隔離して考える思想を持っていなかった、その他の文化圏(日本を含む)にとっては、「そうだけど?」という感想が出てくるかもしれません。自然と一体になって、諸行無常を唱えてきた仏教圏の考え方とヨーロッパ哲学(反哲学)が、重なる部分がようやく出てきました。

プラトンから連綿と続いてきた超自然的哲学に死刑宣告を下したニーチェ、さらに追い討ちをかけるように20世紀最大の哲学者ハイデガーが登場します。ハイデガーニーチェの思想に賛同しながらも、存在概念の規定の部分に際して批判を加えます。

P246 ようするにハイデガーニーチェが「ソクラテス以前の思想家たち」の「存在=生成」と見る存在概念、あるいは「生きた自然」の概念を復権し、それを拠点にプラトン以降の西洋の文化形成を根底から批判しようとしながらも、やはりプラトンアリストテレスの「存在=現前性」と見る存在概念の束縛を脱しきれなかった、そこにニーチェの思索の限界があるとみているのです。

ニーチェの生きた自然概念の復権はよろしい、でも存在の認識の仕方がよろしくない。「存在するものの全体を、生きておのずから生成するものと見、自分もその一部としてそこに包み込まれ、それと調和する」か「存在を認識や制作のための死せる材料とみるか」、この違いが哲学をする上で、決定的に重要だとハイデガーは言います。

そろそろまとめます。
この世界に超自然的存在を持ち込み世界を認識すると世の中がかなりクリアカットに説明することができました。そうすることによって自然科学も宇宙物理学も爆発的な進歩を遂げました。でも、超自然的な人間からこの世界を認識しようとしても「存在」や「死」についてアプローチすることが原理的に不可能です。そこは理性やロジックが届かない世界なのです。近代哲学の頂点を極めたヘーゲルの絶対精神の光でさえ、死や存在について説明することは不可能だった。では、この近代哲学のリーチから外れた「死」や「存在」をどう理解しようがあるのか・・・。哲学は「存在」にどこまで近づいていけるのでしょうか。過去の偉人たちの思想を巡る旅はもう少し続きます。次は、もう一度ハイデガーに迫ってみます。