モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

教育と競争原理

学生時代、私の好きな科目は数学と英語、嫌いな科目は圧倒的に体育でした。
 


そんな私が今では週3日ジムに通い筋トレBIG3で徹底的に身体を苛めた後、30分のランニングをしています。


ジム通いは苦痛どころか、最高のストレス発散、生きる意味すら感じ始めています。ジムに行った後は逆に身体は軽くなり、冬でもぽかぽかし、頭はポジティブな思考に満たされます。


運動するということが心にも身体にもこんなに良いものだとは今まで知りませんでした。同級生のみんなが口をそろえて好きな科目は体育と言っていた理由はここにあったのかとようやく得心が行きました。


そこで少し考えました。


私はなんであんなにも体育が嫌いだったのだろう、一方で大人になってからのジム通いはなぜこんなにも楽しいのだろう、と。




私のような運動音痴にとって。体育は嫌な思い出しかありません。

 

サッカーではボールを取られ、目の前に敵が現れても奪うことも出来ないから引っ込んでろと言われる。キーパーをしても、ゴールキックはさせてもらえない。


バスケではドリブルすれば不格好だと笑われ、三歩歩いて笛を鳴らされる。


バレーでは集中砲火を浴びて、サーブの度に、相手に自動に得点が入るシステム。


体操は前周りをすれば、マットの外に飛び出し、後ろ周りをすれば首を痛める。


ラソンではみんなが見守る中、一番最後にゴールするか、途中で諦めて、冷ややかな目で見られる。

そんな私がチーム競技で選ばれるわけもありません。じゃんけんでリーダーが好きなメンバーを選択していく方法をうちの地元では「とりんちょ」と言っていましたが。とりんちょの時ほど惨めなものはありませんでした。最後に残るのは私と一番のデブとそもそもコミュニケーション取れない系の子です。


そして一番辛いのは、それを女子に見られているということ。どんなに頭が良くても、模試で良い成績をとっても、性的な魅力では体育で活躍した奴には絶対に勝てません。体育後のクラスの中心はいつもそいつらで、私の様な運動音痴のガリ弁は蔭でこそこそ「あんなの出来ても将来何の役にも立たないし」と呟くことしか出来ませんでした。

 


だって、どんなに頑張っても勝てないのです。こっちだって一生懸命やっているけど、足は速くならないし、ボールは遠くに届かないし、身体が思うように動かないのです。まぁ家で練習したり部活に入ったりしてたわけじゃないんですけどね。



体育で活躍できる人は、心も前向きになり、健康を手に入れ、異性にもモテる。


体育で活躍出来ない人は、どんどんネガティブな思考になり、運動量が減り不健康になり、異性から敬遠される。


今の私のあらゆるエネルギーの源泉は学生時代にモテなかったことから由来していると言っても過言ではないので、今となってはその境遇に感謝しない訳ではないけども、やはりあれは残酷な世界だったと思う。


自分の子供も同じ気持ちを味わうなら、子供産まない方が良いのではないかとさえ思う。




体育があんなに残酷な科目になってしまうのは、やはり「競争原理」にあるような気がする。


ジムが楽しいのは自分のペースで自分の好きな運動だけ出来るからなのだ。ここに競争の発想はない。競うべき相手は過去の自分だけだ。過去の自分を超えられた時の興奮は何事にも代えがたい。


体育でもジムを開放して筋トレ、ジョギングだけして良いなら、私でも体育は大好きな科目になっていたはずだ。積極的に身体を動かして、心身共に健康でいられた、とりんちょで惨めな思いをせずにすんだ、異性から汚物を見るような目をされることもなかった。こんなに屈折した性格になってなかったかもしれない。

体育教育が変わっていくことを心から望みます。競争させるのやめましょう。


一方で、逆の視点も考えてみる。

 


私は勉強が嫌いではなかった。むしろ好きだった。


特別なことをしなくても一位が取れたから、楽しかったのかもしれない。その優越感が私を勉強机に向かわせたのかもしれない。

そうなると競争原理って人を成長させる大事な仕組みなのもしれない、とも思う。

 

ただし、私にとっても体育のように、どう頑張っても勉強が出来ない人がいたはずだ。これは競争なのだから、構造的に最下位の人は存在する。


彼・彼女は私にとっての体育のように、それが大嫌いなまま大人になったことだろう。彼らを待ち受けているのはどんな将来だったのだろう。

 

今では知る由もないけれども。



勉強だって、誰かと競争するよりも、自分の好きな内容をとことんやる方が絶対に楽しい。

 

大学2年生のある夜、カールポパーの本を読んでいる時、突然頭に衝撃が走った。


「数学も論理学も文学も哲学も物理学も、あらゆる学問は繋がっているのだ!」と確信した。


その時の興奮はまだ私の人生を支えている。


勉強の興奮、つまり「世界を違った目で見えるようになる体験」というのは中毒的、麻薬的と言って良いほど強烈だと思う。

勉強の競争原理のせいで、この体験を逃してしまう人がいたら、それはとても惜しいことだ。教育の失敗と言って良い。



教育に競争原理を持ち込むことは、短期的にはパフォーマンスの向上に資するように見える。


でも、長い目でみると、これによって失うモノの方が多いような気がするのです。