モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

極め過ぎて可憐なニーチェ本 『過酷なるニーチェ』 中島義道

過酷なるニーチェ (河出文庫)

過酷なるニーチェ (河出文庫)

今日本でもっとも峻厳な哲学者といえば、中島義道かもしれません。

このニーチェ入門書はニーチェの言説の一文を抜き出してポジティブに解釈したり、生きる勇気をもらおうという野暮な本ではなく、ニーチェの徹底したニヒリズムを何も知らない読者に叩き込む本です。

ニヒリズムを徹底した先に能動的なニヒリズムが見えてくる、ニーチェはそう言う。しかし、ニーチェの世界観の主題となっている永遠回帰の考えに同意できないと、すべての主張が受動的なニリヒズムに逆戻りしてしまう気がする。


永遠回帰とは
(1)時間は無限である。
(2)物質は有限である。
(3)すべてのものや出来事は有限である物質の組み合わせである。
(4)有限個数である物質の組み合わせ方法は有限であるので、無限時間の中では永遠に同じことが繰り返される
という考えのことです。

無限論の教室でも見たとおり
nanikagaaru.hatenablog.com
これは実無限の考え方です。

時間は無限なのだから、どんなことでも起こりうる。
でも私には実無限の考え方はあまりにも無邪気というか可憐過ぎる考え方だと思う。

当たり前ですが、「その世界が実現して」初めて「実現したこと」になる。まだ実現していない世界を実現していると思い込むのはただの夢想家です。「πは無限なのだから0が100万個続く部分が存在する」といったところでなんであろう。計算して100万個あった時点でそれを言わねば「空を自由に飛びたいな、はいタケコプター」を夢見る子供と言っていることは同じです。やってみせろ。目の前で実現してみろ。話はそれからだ。この世界が圧倒的なのは、まさにこういう形で世界が存在していて、それを見せつけられていることである。その驚嘆の前には想像すら霞んでしまう。


実無限も永遠回帰もただの想像、妄想と何が違うのであろう。想像上は世界はなんでも起こりうる。大好きなあの子に好かれるかもしれないし、宝くじにあたる可能性もある。想像と妄想で満足するのがニーチェのいう超人なのであれば、神で世界を規定したキリスト教と同型である。


いや別にそれが悪いと言っている訳ではない。
そういうものなのかもしれない。
存在を規定されている私たちができることは、想像だけなのかもしれない。