モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

人文学が役に立つと応えない理由について

 

人文学は何の役に立つのか?という記事で内田先生が槍玉に上がっていました。

 

内田樹でググれば2ページ目くらいにこのブログの記事が出てくるほど、私は内田先生を尊敬しております。内田先生は議論を好まない方なので、ウチダ門下生として、意見を忖度して

 

 私がよくわからないのは、なぜ「自分のやっている学問はこれこれこういう風に役に立ちますよ」とか「人文学はこのような点で社会にとって有益ですよ」ということを素直に示さないのか、ということだ。

 

 

 

この問いに応えたいと思います。

 

 まず、「人文学が何かの役に立つ」ということ、いや言い換えると、「人文学が役に立つと主張すること」が一旦は可能であることは内田先生も、他の学者さんも重々分かっています。あの海外の記事の様に、奴隷解放にも差別撤廃にも一定の貢献をしたことは言おうと思えば言えます。

 

でも、彼らはそんなこと言っても仕方ないと分かっているから敢えて言わないのです。

 

一つ例を挙げます。131種類の蛙がストレスを感じた時に発する臭いを分類する学問があるとします。(というか実際にイグノーベル賞を取った研究です。)この学問は何の役に立っているのでしょうか。人権問題や死刑制度の深い洞察に貢献するような成果はないかもしれませんが、蛙専門の心療内科を開こうとしている人にとっては有用な研究かもしれませんし、自分の仕事が地味過ぎてやる気を失っている人に勇気を与える効果はあったかもしれません。もっとも意味のなさそうな研究でさえ、何かしかの役には立っていると言うことは出来るのです。何をするにしても完全に独立した学問は存在しません。発表し、誰かに認知されている時点でその学問は何かしかの影響を他者に与えているのでます。誰に伝わった時点で、自分以外の他者とコミュニケーションを取れた喜びを与えられたという点では役に立っています。

 

 

なので本当の問題はその先です。つまり「役に立った結果、何の役に立ったの?」という疑問です。

 

 

一度この質問に答えると永遠に質問が繰り返されるから人文学者は相手にしないのです。役に立つかどうかという審問の台に乗らされた時点でその問いは応えられなくなるまで続きます。絶対。

 

だって、審問者ははぐらかされたいんじゃなくて、「何の役に立つ」のかが聞きたいのでしょう?学問とは論理体系の蓄積です。空が青かったから、ではすみません。

 

紹介のあった海外のインタビュー記事。あれはただのはぐらかしです。ピーターシンガーの『動物の解放』によって菜食主義者が社会的に認められたことはわかりました。では、菜食主義者が社会的に認められるようになったことは何の役に立ったのでしょうか?

 

 

 

 

文学が道徳性を養ったとしましょう。その結果、奴隷制度がなくなったとしよう。やったー、文学が役に立ったー!でも、奴隷制度がなくなるっていうことって何の役に立っているのでしょうか?差別される側の不幸量が減ったのでしょうか?じゃあ、差別される人が減るってこと自体は何の役に立っているのでしょうか?差別される人が自由に生きていくことができたのでしょうか?じゃあ、その自由は何の役に立っているのでしょうか?

 

その人個人の幸福量が増えたということが成果でしょうか?なら差別する側の幸福量は減ったのではないでしょうか?たとえば安い値段で奴隷を労働者として扱えていたのに、奴隷制度廃止のせいで高いお金を出さないといけなくなったとか。それはその人にとって不要の(役に立たない)学問だったと言えるのでは?

 

社会全体の幸福量は増えた?なら社会全体の幸福量の総和の最大化が学問の目的?なら幸福量を最大化するためには1人の人間を地獄の苦しみの中におとしめることは役立つことなのでしょうか?

 

という風に最後は応えられない選択にいきつきます。絶対。

 

 

役に立つかどうかの基準が社会全体の幸福量の総和なのか、自分の幸福の最大化なのか、不幸量の最小化なのか、それは誰にも応えられません。役に立つかどうかは一般化できないと、内田先生がいうのはこういうことです。

 

最終効果が役に立っているかどうか判断出来るのは政府でも社会でも私でもありません。何の役に立つの?と問うているあなただけです。

 

 

真剣に学問をしている人に「何の役に立つの?」 と問うてくる人は家路を辿る真面目なサラリーマンに「ちょっと電車賃なくなっちゃってさー、金貸してくんね?」とニヤニヤしながら近づいてくるヤンキーに似ています。

 

 

その問いに対する正解は「どこで得た収入を何に使ったんだね?いくら必要で、いつまでに返し、利子は年利15%でもいいかな?」ではありません。

 

「ちょっとすいません、失礼します」か「そんなの知るかよ」 

です。

 

 

 

 帰りの電車賃は自分で工面するのが当たり前なくらい、学問が何の役に立つかどうかの審問は己自身でやるのが当たり前です。

 

それを他責的な言葉で訴えてくる子供のような大人に対して、「そんなの知るかよ」と応えたくなる学者たちの気持ちも分からないではありません。

 

人文学者たちが自分たちの学問が役に立つかどうか率直に応えない理由。

それは学者が応えても意味がないからです。