新世界より
- 新世界より 上/貴志 祐介
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- 新世界より 下/貴志 祐介
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ボリュームとしては『悪の教典』くらいに見えるが、内容の濃さが全然違う。セリフも多いが、手記の形を取っているので描写や説明の方が多いため、読むのに非常に時間がかかる。
一度目は仕事終わりに少しずつ読んで一カ月かかった。
はっきり言って、貴志祐介は今、日本で一番のエンターテインメント小説家だと思う。その中でも、『新世界より』は文句なしで一番の作品だ。
エンターテインメントとしての面白さも群を抜いているが、この物語の背後に潜むテーマは世界共通永久普遍のアポリアである。
それは「人間の倫理観を揺るがす試み」なのではないか、と僕は思っている。
僕がサイコホラーを好む理由は二つある。
①描写が刺激で退屈しないから
人が殺されるシーンはいつ見てもハラハラする。エンターテインメントとして面白い。実際では観たくないけれども小説で実現できることだから。小説の可能性は無限大だ。
②価値観を揺るがすから
サイコホラーとはサイコパス、つまり反社会的人格者が生み出す恐怖が主題である。彼らには一般人が有するような倫理観が全くない。だからこそ、何の躊躇もなく簡単に人間をひねりつぶすことができる。何気ない生活にそんな狂人が潜んでいたら・・・小さな幸せなど跡形もなく砕け散るだろう。でも、サイコパスはその行動によって我々に問いかける「なんでこれがおかしいの?」と。そして我々もそれに応えることができない。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには「殺してはいけないから殺してはいけない」という定言命法で応える以外にないのだ。~だから、という条件を付ければその条件から外れた瞬間にその決まりは効力をなくすからだ。絶対に人殺しはいけないのだけど、それに理由はない。我々はそのことを何の疑いもはさまずに受け入れて生きているが、そんなことが全ての人間に共有できる、という前提も二つ目の幻想なのではないかと思うのだ。サイコホラーは我々が受け入れている幻想を打ち砕く。不確かな倫理観を外側からの視点で提示してくれる。その時に、深く考えさせられる。人間社会の脆さを。時には、そういう視点を誰もが持っていなくてはならないのじゃないか、と思う。
以上の2点が満たされているれば、別にサイコホラーでなくても良いわけだけど、『新世界より』も見事に条件に当てはまっていた。
舞台は牧歌情緒あふれる田舎町。呪力をもった人間たちが静かに暮らす街。主人公は幼少のころを大切に幸せに生きる。でも、あることをきっかけに、この世界がどうやって誕生したのかを知る・・・
物語は意外な方向に進み、読者はこの世界にのめりこんでいくしかなくなる。呪力というアイデアも非常に面白いし、この世界設定は天才というしかない。そして、この設定を最大限に活かしきる。大スペクタクルだ。
一方で、この物語は単なるSF娯楽小説ではない。
見事に人間の倫理観の境界線を揺らがせている。
人間を殺すことは絶対にいけないことである。をクリアするために編み出した方法は・・・
あいつらは人間ではないことにしよう。
であるかも知れない。
そんな発想の転換を人類はいつか思いつくのではないか、そう警鐘を鳴らしている気がした。
価値観の線は日々刻々と引き直されている。そのことを忘れて、いまの価値観を絶対に疑わずに過ごすことは、非常に危ない選択であると思う。
貴志祐介の小説は毎回、そのことを教えてくれる気がする。
「わたしは人間だ!」 野狐丸のあの叫びが忘れられない。
人間とは何だろう、命とはなんだろう、大切なことはなんだろう、今の僕の価値観は絶対的なものになりうるのだろうか・・・
全人類に投げかけた貴志祐介のメッセージを受け取った時、倫理の境界線はまた揺らぎ始める。
今まで読んだ本の中で最高の類に入る一冊である。
ぜひ皆に読んでほしい。