深夜特急(1)
ついに読んでしまった。禁断の書物とは知りながら・・・。
沢木耕太郎の若き日の旅行記である。乗合バスでデリーからロンドンまで行けるか、とふと思いつき、旅に出た彼。旅の途中にどんなことが起り、誰と出逢い、何を思うのか・・・。
序章ではデリーでの怠惰に身を浸した生活描写から始まり、出発地であるデリーまでに寄った香港とマカオのお話で1巻が終わる。
物語ならば、いろんな偶然の出会いが話を盛り上げるだろう。でもこれはノンフィクションであるから、そう都合よく声をかけてきてくれる人がいるわけでもなく、ちょっとした出会いから人生を変えるような大転換になるわけでもない。でも淡々と日々が過ぎていくこともない、適度に刺激があり、出逢いがあり、感動がある。そんな旅行紀なのだ。
しかも当時彼は26歳・・・。今の自分と同年代なのには驚いた。トルコやタイでの旅行紀はブログに少し書いたけど、質がまるで違う。今度の旅行は沢木風にも街並みの描写やそれを見て感じたことなど綴ってみようと思う。
マカオでの大小(ダイスの賭博)はフィクションであるかのように、読者を惹きつける。カジノにハマっていく健全な青年の心理動向が手に取るようにわかり、読者もその世界に没頭していく、この話に惹きつけられた者はカジノに心を奪われたのと同じことだ。きっと同じ状況に置かれたら身を崩すほどにハマってしまうだろう。
1,2日のことなのだけど、彼はすぐにこの賭博のからくりを見抜いてしまう・・・正確に言えば、法則性を感じ取ってしまう。経営者側ならどういう賭博を用意するのが一番合理的か、という観点で次の動きを予想し、見事に当ててしまうのだ。その集中力と洞察力は尊敬に値する。頭の良い人とはこういう人なのだなと・・・。
そして、あとがき・・・・旅は26歳でしろ、とまとめてあった。
若いうちに世界へ出向くと、ありとあらゆる誘惑に身をゆだねなくてはならなくなる。勉強をしながら、恋をしながら、異文化を観なくてはならなくて、非常に忙しいというのだ。それにくらべて26歳にもなると、社会に対する一定の認識や諦めを持っており、自分の背丈も分かっている。的を絞って、異文化に臨むことが出来ると言うのだ。
モノは良いようだけど、確かに一理あるかもしれない。
丁度今年26歳になる自分がこの本を手に取ったのは何かの縁なのだ。サインなのだ。
仕事を辞めて数年旅に出たらどうなるか想像してみる。
もう一度、今の生活に戻ることは難しいだろうか。大企業に入って、出世コースに身をゆだねる生き方に戻るのは・・・。そうかもしれない。なぜなら、自分の周りには一度レールを外れた人がいないからだ。そういう人間を受け入れる世界に生きていない。でも、いやだいやだと仕事をしながら、社内の根回しばかりに気を配り、大き過ぎて自分のアウトプットがどのように社会に出されているのか全く知り得ない大企業の歯車って、そんなに貴重な立場なのだろうか。誰も楽しそうにしてない仕事。心を殺して日々を過ごすことで得るものは安定。毎月の定期収入。帰属要求の満足。ほんのちょっぴりの権力要求の満足。自己実現の要求は空のままかもしれない。
自由な人生を謳歌する機会を損失してまで、安定にしがみ付く理由を探してみる・・・考えれば考えるほど分からない。
でも、レールを外れたからって餓死するようなことはないんじゃないかと思う。正社員になれなくても、アルバイトならいくらでもある。今ほど余裕のある暮らしは出来ないけど、生きていくことが出来ると思う。
アルバイト人生と会社人生を比較すると、どちらが良いのかも分からない。仕事の質としてはどちらも大したことないのだ。だったら、自分で会社を興すなり、商売とは少し違う仕事に従事する方が充実しないだろうか。そこには安定はないけれど。
大多数の人は安定を手放せないのである。
僕もその大多数なのだろうか。
今の生活を投げうってまで自由な生活に憧れているのだろうか。
この本はそんなことまで読者に迫ってくる。危険な本である。
佐々木中ではないが、「読んでしまった」のである。読んでしまった以上、そこから考えなくてならない。
とりあえず、GWにはインドへ一人旅へ行く。沢木耕太郎のような旅行紀を描いてみたいなぁ。
出発までに6巻まで読めるだろうか。
ものすごく印象的だった一文を引用
恐らく、私は、小さな仮りの戦場の中に身を委ねることで、危険が放射する光を浴び、自分の背丈がどれほどのものか確認してみたかったのだと思う。
危険が放射する光を浴びたい!
自分の背丈がどれほどのものかを確認したい!
という欲望から逃れられない者だけが、自由を手にすることができるのだ。