モフモフになれたら

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『セラード開発』〜真実のワイルドソウル〜

この文章は、私が大学3年生の時に作ったレポートを一部加筆、修正したものです(なので大学生目線で書いています)。当時、自分のやってきたことを俯瞰する意味でまとめた文章ですが、『ワイルドソウル』を読み、もう一度当時の気持ちや事情を思い出そうとして、書き出しました。やはり、まだ全てに決着が着いたとは思えないのです。何かまだ出来るんじゃないか、という思いが常に心のどこかで疼いているのです。

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1、セラード開発とは

セラード(cerrado)とはポルトガル語で「閉ざされた土地」を意味する。その総面積は約2億400万ha(日本の面積の約5.5倍)と言われ、うち1億haは農地に開拓することが可能であり、実現されれば10億人分の食料が賄えるとのデータもある。

平成16年12月14日、JICAはセラード開発(日伯セラード農業開発協力事業、PRODECER)を20世紀に行った数々の国際協力事業の中でも、最優秀事業として位置づけ、推進主体であったCAMPO(日伯セラード開発公社)の総裁には日本で最も敬意ある勲章の一つである「旭日賞」が天皇陛下より授与された。本事業の端緒となったのは1974年9月。田中角栄首相が国賓として訪伯した際、当時中南米最大の農協組織だったコチア産業組合(※注『ワイルドソウル』にも出てきました)の井上ゼルバジオ理事長がセラード開発の現場を案内したことだ。アメリカの大豆禁輸、オイルショックなどを受け、日本では自給資源の不足、食糧危機をどう対処するべきかという論議が活発な時代だった。そんな折に、日本からブラジルに食料の安全供給を目的とし日伯共同でのセラード開発事業が提案されたのである。

1979年第一期試験的事業開始以来2001年第三期試験的事業が終了するまでに総額694億円(日本側負担381.4億円)が投下され、31万ヘクタールの不毛な大地が豊饒の土地として甦った。その結果、ブラジルにおける大豆の生産量は4000万トンに達し、全世界の生産量1億8000万トンの二割強を占めるようになった。セラード地帯だけでみると1980年代には200万トン弱でブラジルの大豆生産量の1割強でしかなかったのだが、PRODECERによる増産で2000年にはブラジル全体の半分を占めるほどに大きく成長した。輸出でも1700万トンとアメリカについで二位の輸出大国となり、国際市場で安定した供給基地となった。

セラード開発に付加されるインフラ整備によって、活性化した街も数多い。かつてのセラード地帯はブラジル国内でも最も貧しい地区のひとつであり、そこに住む人々は一日にタピオカイモの粉を一握り食べるのがやっとで、生まれてくる赤ちゃんの半分は一才の誕生日を迎えることなく死亡、たとえ生き延びえた人でも過度の栄養失調で知能、体格ともに最低の状態におかれていた。そういった状況の中、80年代には家が数件にガソリンスタンドがひとつあるような村であったが、開発事業によって貸付の為の銀行、肥料・農具関係の店、野菜や乳製品の加工工場が作られ、人口が増加、ホテルやショッピング街ができ、家族連れで入植してくる者が多い為、学校、病院、福祉施設なども次々造られ、人口数万人をかかえる都市に発展した。これが日伯セラード農業開発協力事業の光の側面である。

2、セラード開発の闇の側面

以上は日系ブラジル移民のY氏の話とJICAの公式発表を元にまとめた表の成果である。ここからが、覆い隠されたその闇の部分だ。問題を三点に絞ってみる。

まず一点目、そもそもなぜPRODECERは2001年の第三期試験的事業で終了したのであろうか。このことをブラジルメディアは「日本が去って終わった」と伝えた。二点目、なぜ私はセラードと言う言葉をそれまで知らなかったのか。言い換えれば何故日本において400億円も投下した大事業であるにもかかわらずPRODECERは一般市民のレベルで知られていないのか。三点目は、前述したように、何故、日系ブラジル人であるY氏が日本の大学生である私達に助けを求めてきたのか、である。この三点は密接に関係しあっており順に論述すると整理しやすい。

一点目のPRODECERが終了した理由を更に三点列挙してみる。一点目、ブラジル側からの日本への返済(ブラジルは中進国であるため無償資金協力ではない)がスムーズにいっていないこと。日本のODAはブラジル側の銀行を通して給付される為に、日本がいくら安い金利で貸し付けてもブラジルの経済危機(ハイパーインフレなど)の影響で金利が暴騰し、値段が公的に抑えられる農作物を売っている農家は大打撃を受けた。低金利だからという条件で貸付してもらいセラード開発を進めていった植民者達は農作物を作れば作るほど赤字になる。土地を手放さねば暮らしていけなくなり、初期の入植者が全員姿を消した地区もある。入植者一戸あたり平均100万レアルの債務があり、返済のこげつきはブラジル国内でカバーしているのが現状だ。セラードは借金漬けなのである。

二点目、日系の農協が相次いで潰れた事。コチア産業組合、南伯農業組合が90年代、相次いで破綻した。中南米最大の農業組合であるコチア産業組合が潰れ、日本側の重要なパートナーが消えたのだ。日系の農家達は農作物の生産と改良には長けていても、種の仕入れから流通、販売まで、全て農協任せであり農協を失った途端、その生活基盤は崩れ去った。そして多くの日系の植民者は莫大な借金を抱えながら農地を手放す事になった。

三点目は日本の戦略ミスだと言って良い。日本のODAによって供与先の国で道路、港湾、発電所、灌漑施設などが整備されると日本などの先進諸国の企業や地元の有力企業が進出して、輸出も増え、経済力がつくという発展パターンがある。しかし、PRODECERでは生産基盤は作ったが加工、流通には手が回らなかった。そこにコチア産業組合の崩壊があいまって、セラードの流通経路は米国の穀物メジャーが牛耳る結果となった。ブラジルにも住友商事伊藤忠など総合商社が商機を伺ってやってきているが、穀物専門化である穀物メジャーには歯が立たないようである。日本の基盤が消えた今、セラードに残った日系植民者達は種の買い付けの為に銀行から融資を受けることもままならないため、穀物メジャーから穀物を安く売り渡す事を条件に融資を受ける。まさに青田買いである。国際相場が変動しようと値段を決めるのはメジャー側である限り、農家は作っても作っても利益をメジャーに吸い取られる。そういう構造になってしまった。PRODECERが産地育成だけでなく、道路、鉄道、港湾、といった流通基盤まで整備する計画だったならば、日伯独自の流通ルートを構築できたであろうが、日本政府はそこまで考えていなかった。一方、アメリカはコチアが崩壊する数年前からサイロの建設や助成金の法案化などブラジル進出に向けて周到な準備を進めていた。日本の400億円近い融資の果実はアメリカによって摘まれる結果となったのである。

問題の二点目に戻ろう。ここからは憶測をでないが、政府もこの援助政策を失敗だと認めているのだろう。だからこそ、20世紀で最も優秀な事業だと言って片付ける必要があった。400億円を投下した結果、その内実を一般レベルに報告したのは青木公氏の「甦る大地、セラード」だけである。これは元朝日新聞シドニー支局長だった氏がセラードを視察した旅行記的な要素が強い本であった。Y氏は「青木氏が到着した際、JICAは5つ星の最高級ホテルで接待し、交通の便が良い、比較的成功した植民地だけを視察させた。バイア州やミナスジェライス州の影の面は見せられないのだろう」と言った。ここでY氏の素性を明かすと、彼はコチア産業組合の元理事であり、一番最初にセラードに植民した人のうちの一人である。

三点目の疑問、何故彼は日本に助けを求めにきたかは、もうお分かりだと思う。彼はセラード開発のパイオニアの中でただ一人、今もなお現役でセラード開発の再開を呼びかけているのである。コチア産業組合を信じて一日中、汗水流してセラードという不毛の大地を緑に変えたのは、現場で働いていたY氏や若者達であった。しかし、結果として、借金はすべて彼らの肩にのしかかり、農地をすべて手放すことになってしまった。母国のためにと流した汗はアメリカ資本に全て持っていかれてしまったのだ。それでもY氏だけはまだ希望を捨ててはいない。

 

3、民間からのセラード進出の問題点

Y氏が日本に来た目的は具体的にはこうである。現在、彼がセラードに所有する約3000haの土地を125haに区分けし、日本のオーナーが買い取り、そこの開発と経営を日系二世が引き受ける。その農地から得る収益を日本のオーナーに配当する。その収益を元に土地を広げていって、かつていた日系の植民者を皆呼び戻す、というものであった。そこで日本側の役割を私と友人にやってほしいというわけである。大学生に頼まざるを得ないという事は、その事態はかなり逼迫しているのは目に見えていた。既に農林水産大臣に融資を断られ、大手の商社にも門前払いされて、困りはてた最後の最後に、私の友人の論文を読み、一緒にセラード開発をしてくれると確信したとのことであった。彼の熱いメッセージに心を打たれた私達はその日から約8ヶ月間、奔走に明け暮れた。しかし、学生企業コンテストに出場したり、大学の先生の紹介でJICAの担当者にお話を聞いたり、政治家に直訴に行ったり、行動すればするほど自分達の無力さと計画の無謀さを痛感した。3000haの土地を売買するということは数億円のお金が動く、大学生にそんなお金を任せられる人がいるだろうか。飛行機で20時間以上という距離も立ちはだかった。現地まで渡航日だけで10万円である。現地も見ないで人に紹介することはできない。ブラジルの雰囲気も空気も言葉も分からないのだ。ポルトガル語の資料を読むこともできない。セラードを開発するという事は環境破壊を招くことも十分考えねばならない。開拓熱を刺激する事は地球の肺であるアマゾン伐採に繋がりかねない。収穫量増を目的とした遺伝子組み換え作物は人類にいかなる影響を及ぼすだろう。開発=人類の共通善という軽い認識ではもう何も正統化しえない、それが現代の私達に冷たく突きつけられた世界の現実なのだ。そして何よりブラジル側の協力者がY氏しかいないことが決定的となった。一応、コチア青年セラード開発という会社はサンパウロで登記してあるのだが、役員に名を連ねている人たちはY氏の熱意に負けて名前を貸しただけ、そのように受け取れた。あらゆる人から反対され、無理だと言われても、続けきたが、まず内部を固めない事には信用を得られないという結論に至った。Y氏には一度ブラジルへ戻って計画を練り直してくるべきと言い、私の国際協力奮闘は幕を閉じた。

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もうあれから、5年以上経ちますが、どこからもセラードなどという言葉は聞いた事がありません。結局、彼らが流した血と汗と涙はセラードの大地の養分となり、アメリカ資本に吸収されてしまったのでしょうか。最後のあがきにと、新卒として総合商社へ就職する希望もありましたが、私の能力が足りず、全滅・・・。もう少し、自分に能力があれば、もっと上手くことを運べたのかもしれない、と思うと悔しい気持ちで一杯です。

ここで、こんな事を思ったのも、何かの縁かもしれない。今年、一度、ブラジルへ行ってみようと思います。