モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

愛するということ/エーリッヒ・フロム

 

愛するということ

愛するということ

 

 

『自由への逃走」で有名な社会学の大家フロムの『愛するということ』を読みました。というのも、ルミネのこのキャッチコピーを見て、すごく納得させらてしまい、愛について考えてみようと思ったのです。

lumine

「恋は奇跡。愛は意志。」
もう本当にそう。これが全てですね。恋はたった一人の人にめぐり逢う奇跡。いつなんどき誰を相手に恋をするのかは分からない。でも、愛は違う。この人!と決めた時から愛が始まるような気がする。恋が冷めてしまっても、その人を愛するという強い意志があれば、幸せに生きていけるような気がする。

この言葉に説得力を持たせるためにフロムの本は良いかもしれません。この本の結論は「真に人を愛するためには資本主義社会では無理」という残念なものですが、ちょこちょこ金言はちらばめられており、愛とは何かを考えるヒントになります。

P25 このように、人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。

P37 自分以外の人間と融合したいというこの欲望は人間のもっとも強い欲望である。それはもっとも根源的な熱情であり、この欲望こそが、人類を、部族、家族、社会を結束させる力である。融合を達成できないと、発狂するか、破滅する。自分が破滅する場合もあるし、他の人々を破滅させる場合もある。この世に愛がなければ人類は1日たりとも生き延びることはできない。

人間は孤独に弱い。ものすごく弱い。いつも誰かと繋がっていないと不安で寂しくて、気が狂いそうになる。私が最初の会社で地方に出向した時、家族もおらず、同期もおらず、友達もおらず、会社では孤立し、本当に心がおかしくなったことがあります。とにかく寂しくて誰か一緒にいて欲しくて、その時に寄り添ってくれた人が、今の婚約者だったりします。心が寂しいと誰かと一緒に居たいという何よりも強い欲求が生まれます。恋はそこから生まれるんじゃないかと思うのです。現在、恋人が欲しいと思っている人は、ぜひ実家を出ることをお勧めします。家族と一緒にいると寂しくないから、誰かと一緒に居たいという欲求が薄まってしまう。それが草食化、晩婚化の原因なんじゃないかと思うのです。尾崎豊が『誕生』で言ってました。

新しく生まれてくるものよ おまえは間違ってはいない
誰もひとりにはなりたくないんだ それが人生だ わかるか

28歳にしてようやくその意味がわかってきたような気がします。

P35 孤立から生じる不安をやわらげる方法としての集団への同調に加えて、現代生活のもう一つ別の要因を考察しなければならない。それは、仕事も娯楽も型通りのものになっているという点である。現代人はみな「九時ー五時」人間であり、労働力の一部分、あるいは事務員と管理職からなる集団勢力の一部分である。イニシアティブをとることはほとんどなく、仕事の内容はあらかじめ決められている。中略、仕事ほど極端ではないが、娯楽もまた同じように型通りのものになっている。本はブッククラブによって選ばれ、映画は映画会社や映画館の経営者によって選ばれる。中略、誕生日から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている。

仕事も趣味も自分の意思で選んでいると思い込んでいる私を含む現代人ですが、すべてカタログに並んでいる商品を選ばされているだけなのです。なんだか楽しい話ではないですが、人が決めた世界で、人が決めたルールに則って生きるということは、誰かと一緒に生きているという満足感は得られるのでは・・・。

P77 あらゆるタイプの愛の根底にあるもっとも基本的な愛は、兄弟愛だある。私のいう兄弟愛とは、あらゆる他人に対する責任、配慮、尊重、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。中略、兄弟愛とは人類全体にたいする愛であり、その特徴は排他的なところが全くないことである。もし愛する能力がじゅうぶん発達していたら、兄弟たちを愛さずにはいられない。人は兄弟愛において、すべての人間との合一感、人類の連帯意識、人類全体が一つになったような感覚を味わう。

友人、知り合い。親戚、同僚、後輩、先輩に情愛を感じるのはもちろんですが、人は道端に倒れている全然知らない人に対しても憐れみを感じることができるし、海の向こうで辛い目にあっている人の幸せを祈ることも出来る。愛は性衝動とは無縁に発現するし、維持出来る。人間はそうなっているのです。

P89 たしかに異性愛は排他的である。しかし異性愛においては、人は相手を通して人類全体、そしてこの世に生きているものすべてを愛する。異性愛は、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的なのである。異性愛は性的融合、すなわち人生のすべての面において全面的に関わり合うという意味では、ほかの人にたいする愛を排除するが、深い兄弟愛を排除することはない。

ここの部分はちょっと同意できません。”一人の人間としか完全に融合することはできない”は完全に誤りです。だって、完全に融合することなんて誰とだって絶対に出来ません。でも、「この人と融合したい」と志向することはできます。「この人の人生のすべてに関わる」ことはできませんが、「関わりたい」と志向することはできます。すると、この異性愛と兄弟愛の違いって性的な欲望以外になんの違いがあるのでしょう。友人にだって、同僚にだって「深く関わりたい」と思うことはあるし。フロムは「異性愛が同時に兄弟愛でないときは、その合一はつかのましか持続しない」と言っているので、兄弟愛+性衝動=異性愛という図式の方がしっくりくる。(異性愛による性欲が、他の性欲と違うのは「優しさ」があるところ、という説明はありますが、全然説得力ない。)

フロムの本と、ルミネのキャッチコピーの説得力を合わせると

異性愛=兄弟愛+性衝動+持続させる意思

という仮説が成り立つのでは?一時の性衝動から生まれる結びつきは異性愛ではない。兄弟愛と性衝動が結びついて初めて異性愛は生まれる。あっちにもこっちにも振りまいてはいけないから、持続させる意思が必要。でも、性衝動が枯渇すれば、それは途端に兄弟愛になってしまう。じゃあ、長年連れ添ったおじいさんおばあさんの愛情は単なる兄弟愛なのか。意思によって性衝動を持続させなければ異性愛は保てないのか…。いくら考えてもわかりません。これは結婚して何年か経ってみないと実感としては分からないでしょうね。いつか読み返して、何言ってんだコイツ、と思うのでしょう。