モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

月と六ペンス サマセット・モーム

英文学の古典『月と六ペンス』を読みました。

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

天才画家ストリックランドの半生を「私」目線で語る物語です。100年読み継がれているだけあって、登場人物の魅力を的確な言葉選びで最大限に引き出しています。

 

ミソジニ―としか言いようがない人生観が底流しているお話で、今だったらなかなか認められない話かもしれません。

 

なかでもこれは、と思った箇所を紹介します。

 

主人公の女性観。

夫人が世間体を気にしているのを知って、少し熱がさめた。わたしはまだ若く、女の生活において他人の意見がどれほど重要かわかっていなかった。それは女の最も深い感情に偽りの影を落とすのだ。

 ある女性誌の広告文句で「幸せそうと思われたい!」というワードが前面に出ていてプチ炎上したことがありましたね。女性は自分が幸せかどうかよりも、「幸せそうと思われているかどうか」に心血を注ぐ傾向にあるようです。うちの奥さんもキッチンの床がどんなに汚れていようが一向に掃除機をかけたりしませんが、ベランダにタオルが端っこに干してあるとヒステリーを起こして、直しに行きます。

 

 主人公の人間観。

誠実な人間にも偽善的な面は多くあり、上品な人間にも卑しい面は多くあり、また罪深い人間にも多くの良心がある。

やっかいなことに、世の中にはまるっきり善良な人もまるっきり邪悪な人もいません。どちらか一方に振り切れた人だらけなら世の中簡単なのに、と思いませんか。

 

 ある夫婦の生活について。

 

夫婦の暮らしは牧歌的で、独特の美しさが備わっていた。その中で、ストルーヴェのすべてにつきまとう愚かしさが、不協和音のように耳障りな音を立てていた。それでも、その音のおかげで、牧歌はどこか現代的な、人間的なものになっていた。深刻な場面にはさまれた粗野な冗談のように、あらゆる美の宿命であるはかなさを際立たせていたのだ。

 

 こういう表現は文学にしかできない。絵画にも音楽にも映像にも出来ない、こういう一文と出逢えると読書って楽しいなと思います。

 

女性の恋愛観について。

夫への愛に見えたのは、じつは、与えてもらう愛情や快適さに対する反応に過ぎなかったのだろう。ほとんどの女が、それを愛だと思いこむ。夫がどんな人間であれ、女はその手の受動的な感情を抱くものだ。ちょうど、つる草がどんな木にも巻きつくように。賢いものたちはそうした真理をよく知っていて、娘たちに求婚者を受け入れるように助言し、愛情は後から付いてくるから、と請け合う。愛に似た感情は庇護されていることの満足感や、財産を管理していることの誇り、夫に欲される喜び、居場所があることの嬉しさによって生まれる。そんな感情を女が愛と呼ぶのは、精神を重んじるところから生まれる虚栄だ。そうした偽の愛情は、真の情熱の前ではじつにもろい。

 女性の感情などつる草である、と一刀両断します。でも、結婚生活が長く成り立つのは女性が強いつる草だからなのかもしれません。

 

 

 人生の大切なものを奪われた男の告白。

世界は無情で残酷だ。なぜここにいるのか、どこへ向かっているのか、それを知るものはひとりもいない。僕たちは心から謙虚になって、静けさのもたらす美に目を向けなくてはならない。中略、そして、素朴で無知な人々に愛されるように努める。彼らのほうが、知識にかぶれた僕たちよりもずっと優れているんだから。

 

100年前の小説も20年前に習った道徳の教科書にも、最近の映画にも、人類は同じメッセージを発信し続けているような気がします。誰かに愛されるように素朴に生きよ、と。


 

 天才画家ストリックランドの叫び。

愛などいらん。そんなものにかまける時間はない。愛は弱さだ。俺も男だから時々女が欲しくなる。だが、欲望さえ満たされれば、他のことができるようになる。肉欲に勝てないのが、いまわしくてしょうがない。欲望は魂の枷だ。おれは、すべての欲望から解き放たれる日が待ち遠しい。そうすれば何も邪魔されず絵に没頭できる。女は恋愛くらいしかできないから、ばかばかしいほど愛を大事にする。愛こそ人生だと、女は男に信じ込ませようとする。愛など人生において取るに足りん。欲望はわかる。正常で健全だ。だが、愛は病だ。女は欲望のはけ口に過ぎん。夫になれだの、相手になれだの、連れ合いになれだの、女の要求にはがまんならん。

男の魂は宇宙の果てをさまようが、女はその魂を家計簿の項目に入れたがる。中略、おれのためなら喜んでなんでとしたが、おれが唯一望んだことだけはしてくれなかった。つまり、おれを放っておくことだ。

 天才ストリックランドだから言える言葉ですが、大半の男は同じことを考えいているのでは。少なくとも賢者タイム中は。

 

最後はこの言葉。

わたしたちはみな、たったひとりでこの世界に存在している。それぞれが、真鍮の塔に閉じこもり合図によってのみ仲間と意志を通わせることができる。すべての合図が固有の価値観を持っているので、他人の感覚は漠然として捉えどころがない。わたしたちは、心にしまった大切な思いを伝えようと悲しいほどに骨を折る。だが、相手にはそれを受け取る能力がない。だからわたしたちはいつまでも孤独で相手がすぐそばにいながらひとつになれず、相手を理解することも自分を理解してもらうこともできずにいる。まるで、ほとんど言葉の通じない国にいるかのようだ。美しい言葉も思慮深い言葉も口にできるのに、結局はお手本のように退屈な会話しかできない。頭の中には多くの思いが渦巻いているのに、実際にいえることといったら、庭師の叔母さんの傘は家にあります、くらいのものだ。

 

 われわれは心にしまった大切な思いを誰かに伝えたくて、言葉にしたり、歌を歌ったり、絵を書いたり、料理をしたり、仕事をしたりしている。上手く伝わったような気がした日には嬉しくなり、当然のように拒絶されては絶望している。100年前からわれわれの生の営みの目的は何も変わらないのだ。

 

古典と言うのはこういう普遍の価値観に立ち戻らせてくれるので、読み継がれているんですね。とても良い本でした。