モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

脱グローバル論 日本の未来のつくりかた

内田先生の新刊です。元大阪市長平松邦夫さんが開いた4回のシンポジウムの記録です。内田先生の他のパネリストには、盟友、平川克美、哲学者、中島岳志、小田島隆、高木新平、イケダハヤト、と、はてなブックマークをチェックしている人なら大抵聞いたことある人ばかりです。

中島岳志さんがカチッと議論を組み立てて、小田島さんが崩して、内田先生がまとめる、というスタイルが非常に読んでいて小気味良いです

この本でも、内田先生のグローバル企業論がいつもの通り展開されているのですが、そこについて私見をまとめたいと思います。グローバル企業はその性質からして、故郷を持たないし、いかなる国民国家にも所属してない、いちばん人件費が安くて公害規制の優しいところで作り、一番法人税の低いところで税金を払い、投資家やグローバルヘッジファンドに融資してもらっている、そこには国民国家を食わしてやろうという発想がない、と内田先生は言います。

たしかに内田先生の言うグローバル企業の定義に全く異論はないのですが、実際には正三角形が存在しないように、実際にここまで綺麗に定義に当てはまるグローバル企業は今まで存在していないし、これからも存在しないのではないか、と思ってます。どんなに経営者が脱国家的な理念の持ち主でも、公害規制の緩いところで好き放題やっていれば、国際社会で非難されるし、わざわざタックスヘイブンを利用していたら、こないだのアップルみたいに出身国の議会で叩かれます。国民の全生活を一日で一新させることが出来る存在はまだ国民国家にしかありません。まだ、そこを打ち負かすほどの力はグローバル企業にもないでしょう。

従業員は国民国家に縛られるし、顧客も国籍を持っています。人事部は同じ出身地の人を優先的に雇いたいと思うだろうし、営業部は生まれ育ったところでの販売が得意でしょう。顧客は、親や親戚が働いていた地元企業の製品を優先的に買うだろうし、若者は自分の街を潤してくれる会社のために働きたいと思う。人が国民国家の枠に捕われ続けている以上、企業活動も必ず国民国家に縛られる。それが結果的に「国民国家を食わす」ことになっていると思います。

そう、だから問題は”グローバル企業が国民国家を解体すること”ではく、”何でグローバル企業なんて必要なのか”だと思うのです。同じ様に国民国家を潤すのなら、別に地元の商いだけで十分なのです。今まで彼らなりにやっていた生活の中に、コカコーラだの、マクドナルドだの、TOYOTAだのが入ってきて何が変わったのか。もちろん、これらのグローバル企業の役員達は潤ったでしょう。 じゃあ、従業員達は?地元の食堂でパッタイ作ってはずが、マクドナルでハンバーガー作ることになったら、何だ? じゃあ、お客さんは?地元メーカーの車じゃなくてTOYOTAの車乗れて幸せか?

いい面もあるのかもしれない、グローバル企業の製品が入ってきた御陰で、たとえば、移動が便利になり、水が綺麗になり、情報の伝達が速くなったのかもしれない。でもそのいい面って、客観的で数字として表せる良さ、というだけで、今までの土着の空気や生活感っていう数値化できない価値を本当は損ねているのかもしれない。本当は何が良かったのかなんて分からない。

少なくともグローバル企業を拡大し続けた経営陣は潤っている。彼らの株主は潤っている。 グローバル企業拡大がもたらした便益=経営者の便益+株主の便益+(従業員の便益+製品サービスの便益-土着の文化) というところでしょうか。

私が今勤めているのが、まさにグローバル企業だからこそ、毎日考えてしまうのですが、考えれば考えるほど分からないのです。グローバル企業ってなんで存在する必要があるんだろう。販路を広げて、生産網を広げて、いったい誰の何のためになるんだろう。少なくとも従業員である私自身、何も良いことはないのです。自分の給料は上がらないし、面白い体験が出来る訳でもないのだから。ただ現地の人間を雇い、現地の人間で生産し、現地の人間に使ってもらう。彼らは我々の製品を手にして本当に幸福になれるのだろうか。ただ、資源を浪費し、文明の寿命を早めているだけなんじゃないのか、とさえ思います。

それぞれが生まれた場所でひっそりと暮らし、食事をし、会話をし、小さな商売を続け、仲間とつるみ、家族を守るのが、文明を長く繁栄させるためには一番良いんじゃないのだろうか。

ん、待てよ。いつから、文明を長く保たせることが、一番の命題になったんだ・・・。 考えれば考えるほど、自分が何をしたいのか、グローバル企業が何を目指しているのか、が分からないのです。 誰か教えて下さい。