若者よマルクスを読もう
最近、内田樹先生の本にハマっている。
内田先生の本は、自分の思考の枠組みを取っ払ってくれる感じがするから好き。
あ、そういう見方があるかとか。
今までの考えではこれを考慮に入れてなかったなとか。
読んだ前と後で違う自分に出会える、貴重な書き手だと思う。(思想家という意味では他にもたくさんいるけど、これほどの書き手は内田先生しかいない。これほどの量を時代に即した内容で出し続ける書き手という意味で)
そして、僕にとって内田先生の本がそうであるように、内田先生にとってマルクスの思想が檻の中にいる自分を気付かせぶっ壊す力を与えてくるものだそうだ。
この本はマルクスの入門書と言う位置づけらしい。
マルクスのマの字もしらない高校生が読んで、マルクスってすげぇなって思ってもらえるように教師としての
目線からの指南書である。
まえがきには入門書を書く難しさの例として野球のルールを解説することの難しさをあげている。
ボールという言葉には二種類あるだとか、大きな枠組みとしてのルールの他にも中に瑣末な条件がたくさんあるとか。
たしかに、いきなりボールを観たこともない人に野球のルールを説明するのはかなり知的なチャレンジであると思う。すごく分かりやすい例えだ。
この本も、それと同じように、マルクスを赤子にも分かるように、優しく解説してくるのだろう、と期待を寄せて読むと・・・ちょっと違う。
基本構造は石川康宏という人と内田先生の文通形式。しかも、分量の割合が7対3くらいなんじゃないだろうか。
石川さんの解説が長い。そして、固い。教科書的。
それに対して内田先生が違った目線を提供してくれるという感じ。
はっきり言って、石川さんの書いている文章はすごく普通であった。
よくある。
何の説明もなしに『史的唯物論』とかさらっと使っちゃう感じ。
史的唯物論なんて彼ら学者にとってみたら野球部にとっての『ファール』くらい当たり前過ぎて、説明しなければならない言葉である、という意識にすら上らなかったんだろうな。
でも、それが思考の檻に見事にハマっている気がする。
何もしらない人の頭を想定していないもん。自分の思考の枠組みの中で捉えたマルクスを自分の知っている言葉で相手を想定しないまま淡々と書くことが『若者よマルクスを読め』の趣旨ではなかったハズだけど・・・。
この本は続きが出るらしい。とても一冊ではマルクスの巨大な知的遺産を継承しきれなかったようだ。
せっかくなら交換書簡よりも、どちらか一方が書いた方が読者にとっても良い気がする。
教科書的な文体を好むなら石川さん。
斜め読み裏読みをしたいなら内田先生。
みたいな。(まぁ、一冊だからこそ二人とも役割を意識して書いてるんだろうけども)
読むほどの本じゃないと分かりつつ、続編が出たら絶対買うと思う。
それは、この話の延長線上に心を震わすほどの知的興奮が味わえるような期待を、この一巻目から感じ取っている何よりの証拠だ。
と言うことは、これもやはり、面白い本なのかもしれない。