モフモフになれたら

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利己的な遺伝子

利己的な遺伝子 <増補新装版>/リチャード・ドーキンス
¥2,940
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あらゆる分野でも参照される歴史的名著! 人文科学の世界でも、何度耳にしたことか。 めちゃくちゃ分厚いのに、タイにはまで持っていき、かなり嵩張ったけど、それでも読みたくなるほどの魅力がぎっしり詰まっていた。 一応専門書の部類に入るのだろうけれども、本著は生物学を専攻する前の学生を対象としているようなので、素人でも大変読みやすいのである。そこら辺が、広く人口に膾炙した所以なのだろう。 著者も危惧している通り、あまりにセンセーショナルなネーミングのせいで間違った印象を与え、そのまま想起される内容を勝手に参照されている、悲しい本でもある。 読めば分かるけども『利己的な遺伝子』とは、遺伝子とは利己的に振る舞うのである、という意味で使っているのではない。言葉の印象から勝手にそういう意味だと判断して「遺伝子なんて利己的なんだから」という理屈を盾に、道徳論をねじ曲げようとする輩がいるが、全くの誤解なのである。 この言葉を選んだことが本書の成功の大きな要因の一つだが、マイナス面もあったと思われる。 リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子という言葉をどういう文脈で使っているか・・・。 それは「先祖から脈々と受け継がれている染色体の中の一部DNAを遺伝子と定義すると、それらは自らが生き残るよう働き掛けてきた訳だから、それを利己的と言うのである」という意味だ。つまり、「利己的に行動して受け継がれていくDNAの一部を遺伝子と呼ぼう」と定義したわけである。自らルールを制定してしまったのだから、もう負けはありえない。リチャード・ドーキンスの賢いところはここにある。 違う!遺伝子は利己的じゃない!と反論したところで、利己的に行動してきたものを遺伝子と定義しているのだから、絶対に勝ち目はないのである。ある意味、ずるいと言って良い。 この本は、その定義にしたがって、一見利他的に見える行動も全て遺伝子が生き残るための原因となっていることを明らかにする。 そりゃそうである。 だって、遺伝子は受け継がれている、という結果を前提としているのだから。こうやって遺伝子は受け継がれてきた、という原因を後付けすることは非常に容易い。 受け継がれているものが遺伝子、と定義されているのだから、そこに反論の余地はない。 受け継がれてきたという結果があるのだから、必ず原因もある。 今まで、群淘汰として理解されてきた自然淘汰理論を遺伝子のレベルに解体し組み直す議論は、全く隙がない。 群れを守るために自ら囮になる行動をする動物をどう絶命するか、という議論である。群淘汰論者は、自分と同じ動物を守るために犠牲になることができる動物が結果として繁栄する、と説明しようとするが、同じ動物とは何か、どうやって動物が他の動物を区別しているのか、を全く説明できていないのだ。 彼らは、親子だけ?親戚まで?何親等まで?馬は馬とロバの相の子を守るために命をはるの?という質問に答えられないのである。 遺伝子淘汰説は、この難問を非常にクリアに線引きする。自らの遺伝子を受け継ぐ割合の大きいモノのために犠牲になる行動は結果として自らの遺伝子数を生物界の中で多くする、というのだ。命を張る可能性は、自らの遺伝子が消えることで失われる数と、守れる遺伝子の数のバランスで決まる。なぜなら、そうすれば、遺伝子は続いていくから。現在、遺伝子が続いているのは、その結果だからである。 ただ単に、今まで考えられてきた定理をもっと細かくして練り直しただけなんじゃねぇの、と思うかもしれない。 現に、彼自身も書いている。 これは理論ではない。観測された事実ですらない。それは同語反復である。 と。 だが、その同語反復のお陰で、日常生活に根差した考察がもっと楽しくなることもある。 男と女の恋愛観に還元してみる。 男は同時に沢山の女性と関係をもって、遺伝子を多く残したいのである、だから、男は浮気をする。 と、巷では言われる、と思う。遺伝子論を都合よく解釈した良い訳である。 でも、この理屈は遺伝子淘汰上、完全に間違っている。 チャラ男=いろんな女と関係をもって、子育てをしない男 と定義すると 男は子育てをしないで、子供を作りまくる方が遺伝子淘汰上有利なように思える。 しかし、子育ては男女ともに行った方が、子供の生存競争上、絶対に有利である。 現代社会でも、原始的な世界でも、食べ物を確保する効率(経済的要因)や、自立するまでの時間(教育的要因)など、さまざまな面を勘案して、そう言える。 だから、チャラ男の子供はイクメンの子供よりも不利なのである。 チャラ男の子供とイクメンの子供は間違いなく後者が多く生き残る。 だが、チャラ男の子供の方が生まれる数は多いから、10対0になるわけではない。どこかでバランスするのである。だから、全員浮気思考の男ばかり、という社会にはならない。これで上の言い訳は論破される。 さらに男を選ぶ女性側からみれば、自らの遺伝子を増やすのに、圧倒的に優位なのはイクメンである。だから、慎重にイクメンを選ぶ女、保守子は栄える。一方、チャラおと関係をもつサセコはどんどん不利になる。 保守子の子供はイクメンだから、イクメンと保守子ばかりの社会になる。 するとどうなるか・・・・突然変異でサセコ登場(保守子の方針転換でもいい)保守子と関係をもつのは手間がかかるが、サセコはすぐに関係を持てるから、保守子ばかりの世界ではサセコの方が確実にモテる。イクメンは全員サセコへ行く。・・・サセコ大勝利!!とはいかない、なぜならサセコを相手にするならイクメン的行動よりも、チャラ男の方が効率が良いから、チャラ男が再登場してくるのだ。そして、チャラ男、サセコの世界はイクメン、保守子が大事にこつこつ子育てをすることでひっくり返されてしまう。これで振り出しに戻った・・・繁栄の仕方に数値を入れれば、どこかでバランスしていく。 世の中、単純にはいかない。チャラ男、イクメン、保守子、サセコはそれぞれ必要なのである。 この本は、人間の道徳的側面に関して、言及をしている本ではないが、人間の可能性としてミームという造語が出てくる。代々、伝えられる人間の文化的価値を意味する造語である。音楽や言葉や知的財産は遺伝子として伝えられることはないが、結果だけを観れば、文書やデータとして連綿と遺伝している。これは、新しい遺伝子と言えるのではないか。 人々が考えたことをそのまま後世に伝えられたら、どんなに良いだろう。毎回、子供はゼロから生まれて、ゼロから勉強し直さなくてはならない。でも、その取得スピードは、原初の時よりはかなりアップしているのだろう。 きっと、このミーム機械的に破滅へ向かう行動の抑制になるし、人間が人間たる所以なのであろう。 世の中の観方に新しいスパイスを与えてくれた、刺激的な一冊! どんなに大きくて重くても、持ち歩いて読んでほしい、歴史的名著であった。