モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

貧困の光景

貧困の光景 (新潮文庫)/曽野 綾子
¥452
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なぜアフリカ大陸には急速な経済発展中の「途上国」が現れないのだろう、とふと思い、アフリカに関する本を読んでみたくなった。 この本は貧困がテーマなのでアフリカだけでなく、南アメリカやインドの描写も含まれている。が、圧倒的なリアリティと悲惨さはアフリカの描写が群を抜いていた。 アフリカには雨風を凌ぐ家さえない人々がいるという。文字通り、雨風をもろに受けながら食事し(食料が手に入れば)、睡眠を取るのである。まさか、雨に濡れながら寝る、ほど悲惨な生活をしている人間がこの世界にいるとは思わなかった。日本ではホームレスでさえ、屋根のあるところで寝ているというのに。 もう少し貧困の度合いが低い人々は屋根のある家に住んでいる。が、ホームメイカーや大工などに建築を頼める訳もないので、自然、家は自主制作になる。一番安くすむ方法は、安価で程度の悪い煉瓦を買い自分の手で一つ一つ積んでいくことだ。煉瓦もタダではないので、一番少ない煉瓦で家を建てる方法を考えると、自然と一間の家になる。部屋を区切る煉瓦もないのだ。一間しかないから、そこに夫婦も子供も寝食を共にすることになる。すると、どういうことが起るか。子供たちは小さい頃から夫婦の営みを一部始終直視することになる。隣で営まれる愛の儀式に子供たちは当然興味を覚える。だって、ゲームもマンガもパソコンも遊び道具は何もないのだ、自分たちの肉体で遊ぶしか方法はない。肉体を最大限に生かし、快楽を引き出しているこの営みに子供たちが興味を覚えないはずがない。すると、若年出産が増える。収入は増えないが口は増えていく。経済発展のないまま人口だけは増え続ける。これがアフリカの貧困を深刻化している一つの要因らしい。 さらに、教育がいきとどいていない人たちが大勢いる。どれほど教育がなされていないか、というと数字の概念が理解できないほど。1とか2とかも分からない。教育を受けていないんだから当たり前だ。時計もないから時間の概念もない。ただ昼と夜があるだけ。時間がわからなければ距離も分からない、長さも分からない。そんな彼らに職を与えることができるだろうか。グローバルカンパニーが安価な労働力を求めて、ここに工場と立てたところで、数字も時間も分からない人たちを雇うことはできない。だから、豊富な労働力を頼みに中国の様な世界の工場になることもできない。これが二つ目の要因。 3つ目の要因が最も深刻なように思える。それは倫理の崩壊である。部屋の中に小銭が転がっており、飢餓の心配のない人間が、今目の前に迫る餓死の恐怖から逃れようとする人間に倫理など語ることができるだろうか。NGO団体が、子供たちを救うワクチンを買うお金を医師に送ろうとしたとする。すると何が起るか。まず受け取った現地の団体が着服、横領する。嘘の申告をして、私腹を肥やす。それが一つの。現地のNGOが正義の徒、ちゃんと病院にお金が送金されたとする。するとそこの医師長や看護師長が横流ししてお小遣いにしてしまう。現物支給にしたらどうか、医師はちゃんとお金を払ってくれるう富裕層の治療にのみ、そのワクチンを使うだろう。彼らにとってそれが最も合理的な選択なのだから。だから、今死にかけている最貧民の子供たちに、寄付のお金が届く期待値は恐ろしいほど低い。著者の曽野綾子さんは自身でNGOを運営し、そんな苦い経験をいくつも知っているため、用心に用心を重ねて寄付し、現地までちゃんとそのお金が使われているか確認しにいっているという。しかも自費で。そんな曽野さんでもビックリした事件がある。看護師になるための勉強をしたいと望む少女に奨学金を出すことにした。少女に直接送金すれば、目の前の空腹にそのお金を費やしてしまうかもしれない、はたまた家族や親せきの困窮の訴えにお金を遣いはたしてしまうかもしれない。現に、子供たちに直接あげた物品は翌日にはもうなくなり、市場に出回っていた、というような光景をいくつも目にしてきているからだ。せっかく人にもらったものなんだから、売ったりしたらいけないんだよ、という倫理をかざしても意味がない。今目の前にある空腹にたえろ、と誰が言えるだろう。死にかけている家族を放っておいて自分はその物品を使え、と命令するとしたら、そんなの寄付と言えるだろうか。それでも、有効にお金を使ってもらいたい、なぜならそういう善意の下に集まったお金なのだから、お金を出した人たちは餓死におびえることはなくてもそれぞれの人生の中で汗を流し、涙を流し、努力に努力を重ねて得たお金なのだから。そんな狭間に苦悩しながら、直接、看護学校に送金した奨学金・・・これで少女は看護師になる夢をかなえることが出来たのか・・・・いや、現実は小説よりも残酷である。校長先生がその奨学金をもって逃げてしまったのだ。日本の常識では考えらえれない。というか合理的な説明がつかないではないか。一人の少女の学費が、その学校の校長をして職務を捨て、責任感を捨て、住居をすて、存在を消滅せしめる、ほどの魅力があるはずがないのである。一つ可能性があるとしたら、校長は初めから着服して逃げる目算で、入学金や学費を膨大に水増しして請求していたか、である。馬鹿な団体が金をだすと言っている、これはひと儲けするチャンス、こんな看護学校未来はないし、学費は全然集まらねぇ、NGOからの奨学金を水増し請求すれば、全てを捨てて逃げても、その恩恵は余りある、と考えたのであろう。校長先生は教育機関の長のはずである。教育とは人がどう生きるかを教えるところであるはずなのに、その長の倫理観が完全に崩壊していたのである。曽野さんによれば、アフリカの権力者たちは私腹を肥やすために権力を保持し続けているという。権力とは、世のため人の為に、社会を人間を動かす力なのではなく、自分の為に世の中のヒトモノカネを集める力だったのだ。ここまで荒廃していると、ちょっとどうしたらいいか分からなくなってくる。 この本で残念なのは、曽野さんの論調が日本人を糾弾するような形で綴られていることだ。これを読んで、良い気持ちがする日本人は一人もいない。「日本の貧富の差なんて瑣末なもんだ、そんなこと気にする奴はアフリカ観てこい」といった調子である。たぶん、この貧困問題の根は、曽根さんのこの論調にも深く根ざしていると思う。職がなくコンビニ深夜バイトで両親を養うしかない日本人のオッサンに対して、「水が蛇口から出て、雨風をしのぐ屋根の下、布団の中で寝ることが出来て、廃棄した飯でも食うことができるんだから、幸せだよ、お前は」と、曽根さんは言うだろう。でも、曽根さんはその人の生活をしたことがない。その生活がどんなにみじめで不健康で非生産的で理想とかけ離れているか、誰も想像することしか出来ないし、生々しい体験として生きることは不可能である。アフリカの貧困もそうなのだ。僕等はこうやって本やテレビで表面的な事件を見聞きし、うわぁ、そんなひどい世界があるのね、もっとみんな仲良くやればいいのに、と想像を膨らませて終わらせてしまう。奨学金を着服し逃げた校長先生の気持ちを察する事が出来ないのと、コンビニのオッサンの気持ちを想像することができないのは、全く同じことである。つまり、アフリカに肩入れして、日本なんか恵まれているよ、と日本の現実を直視しない姿勢は、日本の格差社会を案じて、アフリカの貧困に目を向けない姿勢とは、一卵性双生児なのである。人の気持ちになって考えること、相手の立場に立ってものを考えること、が可能だと思っているところが相似形なのだ。そんなこと、不可能だからやめて、みんな自分勝手に生きればいいじゃん、と言っているのではない。不可能だということを常に意識しながら、自分の行動の是非を何度も問いかけ続けなければいけないんじゃないの?と言っているのである。 曽野さんの理念や行動は非常に素晴らしいけど、そんなモノ言いじゃ、反感を持つ人が増えて、「そんなら寄付しねーよ、勝手にしやがれ」という人が増えちゃうよ。だから、貧困に立ち向かう第一歩は自分の足場をきちんと確認してからにしようね、と自分自身の戒めとして思うのである。