モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

HHhH プラハ、1942年/ローラン・ビネ

ゴンクール賞最優秀新人賞受賞、リーヴルドポッシュ読者大賞受賞の本作。フランスの作家ローラン・ビネによるナチスの最終解決主導者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺計画を題材にした小説…?…いや書物…?です。

非常に変則的な文学です。380ページもの長編が257の断章に細かく分かれており、章毎に小説だったり、一人称の語り、だったりどちらもごちゃまぜになっていたりするのです。歴史小説というよりはドキュメンタリーに近いのかもしれません。その辺の違和感をちょこっと内容に触れながら、批判も交え考察します。

ローラン・ビネはハイドリヒの乗っていたメルセデスのボディカラーの色にまで偏執狂と言えるほどの拘りを見せます。彼は歴史を語る事に関して病的なまでに慎重で、ちょっとした創作や想像に関しても断りを入れずに居られない。小説なのだから、登場人物の台詞や仕草、立っていた場所や時間、風景や建物、ちょっとした心情の変化についても触れぬ訳にはいきませんが、その一つ一つの描写に反省し、反論し、撤回し、宙づりにしていく。この本の恐らく70%は彼のそういった内省の描写だ。あたかも冗談を言った後に”この話の何が面白いかというと”と説明されているような居心地の悪さが伴う。でも、これが彼なりの当時を生きた人達への敬意であり、追悼なのかもしれない。

192 歴史的真実を理解しようとして、ある人物を創作することは、証拠を改ざんする様なものだ。中略、証拠物件が散らばっている犯罪現場の床に、起訴に有利な物証を忍び込ませること…。

確かにビネの主張はどこまでも正しい。実際にどんなことが話され、どんなことが起きたか、細部に至るまで過去の事実を確認する事は原理的に不可能だから。ただ歴史小説家もそんなこと百も承知で、読者も同じ前提に立ちながら、歴史小説家の想像による物語を受け入れてきた。でも、ビネはそんな歴史小説家の態度には厳然とNOを突きつける。ハイドリヒの乗るメルセデスを緑色であると表現した過去の小説を一刀両断したように。彼に言わせれば、その一点の創作が歴史を歴史でなくさせるのだろう。ただ本当に彼の言う通り、歴史に”創作の物語”を挿入したくないのであれば、価値判断のない事実のみを列挙し続けなくてはならない。”メルセデスは緑だった”という判断は恣意的だが、”チェコレジスタンスは英雄だった”という判断は恣意的でないとどうやって言えるだろう。

彼の目指す小説が、一切の創作、独断、価値判断を排除した文学を目指しているのであれば、その目的は達成できたのだろうか。戦後対独協力者として人道に関する罪を問われた政治家ブスケに関する章を見てみよう。

202 二年後、彼はひとりの狂信家に自宅で撃たれ、予審の取り調べはそこで閉ざされる。ブスケを殺した直後、警察に逮捕される前に記者会見をしたこの男の事を、僕は良く憶えている。こんな行動に及んだ理由はひとえに目立ちたかったからだと落ち着いて説明している。その満足げな顔もよく憶えている。そのときすでに、なんて馬鹿な事をしでかしてくれたんだと思った。中略、僕はブスケのような人間に対して、計り知れない嫌悪と深い軽蔑を感じるものだが、この男を殺害するという愚行と、この行為が歴史家にもたらした喪失と、裁判が続けば必ずや明らかになったであろう事実が永遠に闇にしずんでしまった事を思うとき、この胸は憎しみにあふれる。彼は無実の人間を殺した訳ではないが真実を葬り去ってしまったのだ。

この文章を読んだだけでいかにビネが直情的な価値判断の中で、この本を書いているかが分かる。彼は戦争犯罪人であるハイドリヒを暗殺しようとしたカブチークとクビシュを英雄視しながら、同じく戦争犯罪人(容疑にかけられていた)ブスケを殺した犯人に対しては”歴史的事実を闇に葬り去った大バカもの”と評している。この英雄と大バカもの差は何だろう。カブチークとクビシュの暗殺計画はプラハに変革の兆しとユダヤ人の多少の慰みもたらしたかもしれないが、ブスケと同様、ハイドリヒの証言から歴史的事実を明らかにする可能性を抹殺した。同じ様にブスケの殺害は歴史的事実の抹殺と同時に、恨みをはらす役割も果たしたであろう。では、何が違うのか。殺害した相手の犯罪の規模だろうか、殺し方の鮮やかさだろうか、いや違う。それはただ単に”歴史という物語を読んでいるか”否かだと思う。事実の中には英雄も大バカものもない。彼らを英雄と大バカものとに線引きするのは、自身の独断と価値判断である。自身の独断と価値判断で過去を規定する行為を最も嫌い、避けていたのはビネその人ではなかったか。

一切の創作を病的なまでに嫌うビネは、史実を積み重ねながら、明らかに歴史という物語に陶酔している。現場に置かれた自分好みの証拠物だけを拾い上げ、好きな物語を紡いでいる。そういう意味で、この文学はドキュメンタリーではなくどこまでも小説と言って良い。

つまり、この本は”ビネが史実を積み上げながら理想的な歴史的文学を書く”という内容のメタ私小説なのだ。私はハイドリヒを擁護する気も、プラハの英雄二人を非難する気も、ブスケを殺した犯人を大バカもの呼ばわりする気も毛頭ない。ただ『HHhH』の独特のスタイルが世界中で絶賛されているというのが腑に落ちないだけだ。

この本は小説でもドキュメンタリーでも偉大な書物でもない、単なる私小説である、というのが私の考察です。だから、物語を愉しみたいのなら徹底的に著者の存在を排した歴史小説を読む方が良いし、史実を淡々と知りたいのならドキュメンタリーや歴史文献をあたる方が良い。ビネの自己満足にかかずらっている暇はない。