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夜の鼓動にふれる 戦争論講義

夜の鼓動にふれる―戦争論講義/西谷 修
¥2,415
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フランス系哲学者、西谷修先生の東京大学の一般教養「現代思想」の講義を収録した本。 本講義は高校を卒業したばかりの大学1,2年生を想定して組み立てられているので、思想に対しての予備知識なしで読める良書だ。僕自身、ここから政治思想に興味を持ち、最終的に専攻することになったと記憶している。大学1年の時、読んだんだけど、今読み返してみても新鮮で、というか全部忘れていて、面白かった。 昼とは一切の対象が明るみに姿を表し、自分と他者、内と外が明確に分け隔てられている秩序だった世界。それに対して、夜は、一切の区別が解けて、闇の中、蠢めき、ざわめき、感触をただ皮膚で感じ、音で聞くことだけが可能な混沌の世界。戦争とは夜の力が人間世界を覆い尽くす「現実」であるから、昼の論理をかざしても夜を理解することはできない。 この昼と夜の概念をベースに、へーゲルを頂点に連環を閉じた近代西洋哲学を「昼」、ハイデガーの「不安」バタイユの「恍惚」、レヴィナスの「il y a」の術語を「夜」と配置し、人類が経験した「戦争」の意味を暴きだしていく。

P89 王家の財政に制約されていた戦争集団の調達も、人的にも物的にも国家財政の規模にまで拡大しうることになり、原理的には国民経済が破綻するまで戦争を遂行することが出来ます。要するに「国民国家」の成立が戦争の「絶対化」の条件を整えたということです。

僕が政治学を勉強して、一番衝撃的だった政治理論の一つ。国民国家暴力装置という逆説である。国家とは人々の暴虐を統制し、最低限度の文化的生活を保持するために存在すると思っていたら、まったくその逆だったのだ。権威を帯びた領主から土地を借りる代わりに生産物を納める荘園的な形態であれば、彼らを繋いでいるのは経済的な利害関係のみである。領主の命令で戦争に駆り出される職業戦士たちは、これ以上やってもお互いのためにならないと分かれば、それ以上規模を広げることはない。だって、そんな無理をいう領主には仕えなきゃ良いんだから。けれど、構成員全てが主権者となった国民国家の戦争は、それとは訳が違う。国民たちは自らの為に戦う。戦うことのみが、自らが勝ち取った「自由」の正当性の証明になるのだから。国民たちは、国家が持つ全てのリソースを注ぎ込んで戦争に勝とうとする。相手が牧歌的な荘園領主なら良いが、同じ国民国家となったら、手を抜くいた方が負けである。総力を結集しない方が負け、と言うことは、負けたら文字通り殲滅となる。畢竟、お互い総力を結集した死闘になる他ない。主人からの権威や暴力を逃れ、自由を勝ち取った国民たちが作った国民国家がぶつかる「殲滅志向の暴力装置」という背理。 この本のもう一つの良いところはハイデガーの難解な術語を生活レベルまで落としこんで分かりやすく定義付けしてくれるところ。 存在論的差異・・・「存在するもの」と「存在すること」の区別。名詞と動詞の区別。 現存在・・・存在がみずからを問うという特権的な場、そこにおいて存在がみずからを問題にする存在者 世界内存在・・・存在することを意識しない、日常の中で有為な活動をする場 この術語の守備範囲はこんなもので語りきれるはずもないのだけど、その他の文献を見る時、この程度の認識がある中で読みとれば、意味の射程の広がりをさらに体感することが出来る。 西洋哲学の完成でヘーゲルが予言したとおり、余剰となった「否定」が、主人であるはずの人間自身に向かった。その否定こそが、先の大戦であり、「アウシュビッツ」と「ヒロシマ」であった。 人間の尊厳を求めたはずの国民国家という擬制と人間の生活を高めるはずのテクノロジーが、人間自身を否定し、人間の死の不可能性さえも露呈させてしまった。 今後の「夜」は国家という枠にとらわれない個の単位で襲ってくるだろう、という論旨は9.11を予言していたとも思える。 17年前の本だけど、まだまだリーダビリティのある哲学入門の良書だ。