モフモフになれたら

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恋するJポップ 平成における恋愛のディスクール

恋するJポップ―平成における恋愛のディスクール/冬弓舎
¥1,890
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内田先生の本で紹介されていたので、読んでみました。 著者の難波江和英さんと言う人は、内田先生と同じ大学で教授をされている方で、内田先生と共著も出しています。「現代思想のパフォーマンス」という本です。丁度、車上荒らしで盗まれた本です。 内田先生は、この本を絶賛しているのです。特にJポップの歌詞に他者が存在しないという指摘は鋭い、と。 ただ、この本の本質的な深みを理解出来る人は少ないだろうと、内田先生が言っている通り、表面的にはものすごく浅い本の様な気がしました。僕はこの本の本質的な深みを理解できない大多数の内の一人に過ぎないのですが、どうして浅いのか少し考えてみたいと思います。 まず、この本はどういう目的で書かれた本か。 Jポップの歌詞から平成の若者の恋愛観、ひいては人生観を論じようとする社会学の本である。 このテーマを論じるにあたって、Jポップとは何かを定義するのだが、それがまた酷く曖昧なのだ。

p16 Jポップとは、中略、戦後にアメリカから流入した洋楽(ポップスやロカビリー)をルーツとし、1950年代から1960年代にかけて流行したカバー・ポップスと和製ポップスの段階を経て、筒美京平の音楽に代表される1960年代後半以降の歌謡ポップスにいたる流れから発生した、1990年代以降の日本の商業音楽のことである。

Jポップとは「ジャパニーズポップス」の略である、ならば、その定義に「ポップス」を使うのは宜しくない。 たとえば、「Jぱぴぷぺぽん」とは海外の「ぱぴぷぺぽん」から派生した日本の「ぱぴぷぺぽん」である、という説明と同じである。 この定義には何の情報量もない。結局「ぱぴぷぺぽん」とは何なのか全く分からないから。同語反復、トートロジーである。 筆者がJポップのことをポップスから独立した独自の音楽であると想定しているのだとしても、「洋楽」という言葉を使っている限り、意味は同じである。洋とは日本ではない、ということであるのだから「洋」楽とはJポップを定義して初めてひとくくりに使える言葉なのだ。海外の音楽から派生したことを言いたければ、どんなジャンルのどんな曲がルーツにあって、どういう形で派生進化したのか、を説明するべきだ。しかし、それをしなかった。なぜか、そんなこと不可能だからだ。Jポップとは大衆音楽、という意味の他、音楽的な特徴は何も持たないからだ。クラシックをカバーしたJポップもあれば、ジャズ調のJポップも溢れている。音楽が多様化し過ぎてしまったため、それらをひとくくりにする呼称をつけた。それが「Jポップ」である、と僕は思う。

p43 日本のポップスは洋楽のサウンドと日本語がせめぎあう闘争の場であり、中略「あだ花」といえるだろう。

何度も言うが「洋楽」などというサウンドはない。ジャンルもない。日本の音楽ではない、という意味以外なにもない。 それで、ここからJポップの歌詞から若者の恋愛観を論じて行くんだけど、はっきり言って無理があり過ぎる。その理由は3つ。 1つ目。ヒット曲の歌詞を引用している訳ではない。 Jポップとは商業音楽であると定義した難波江氏は、全然センスのない曲ばかりチョイスし考察している。 矢井田瞳 maze ELT Future World ,Rescue me 相川七瀬 NO FUTURE GLAY little lovebirds 等。 彼らの歌詞を捉えて、若者の恋愛観を語られても、若者は「?」だと思う。 大してヒットもしていないのである。若者は歌詞に共鳴してCDを買っているとしたら、売れれば売れるほど、その歌詞が若者の心境を代弁していることになる。Jポップの歌詞から社会理論を展開しようとしている本なのだから、そのような前提に立っているのかと思ったら、そうでもないらしい。 日本の音楽は演歌以外は全てJポップ、売れていようが売れてなかろうが、すべてのJポップがその時代の若者の気持ちを代弁している、という前提にたっていなければ、こんな本書けない。 そのような前提に立てば、無数にあるJポップの歌詞から好きな部分だけ抽出して、自分の都合のよい社会理論を導き出せばよろしい。 2つ目。歌詞は音に縛られている、という事実を無視している。 歌詞とは、詩ではなく、論文でもない。メロディに載せなければならない言葉なのだ。音のリズムや高低の出しやすさによって当然、言葉は縛られる。(たとえば、一番高いところに「ん」を乗せようとしても、何となく聴き取りずらくなる)にもかかわらず、難波江氏は、言葉尻を捕まえてドヤ顔でこう語る。

p95 この「~かな」からは、旧世代の女性が男性に見せていた自信のなさや、それにともなう不安が感じられる。主人公は決断力に乏しく、はっきりした態度を取れないと言う意味で、優柔不断に見えるかもしれない。

別に優柔不断だから、「~かな」と言っている訳ではない。メロディに載せるためだ。そのメロディがもっと短かったら、「~だ」と言い切っているだろうし、もっと長かったら「~かもしれないし、そうじゃないかも、よくわかんない」と歌っているだろう。 歌詞に英語が多くみられるようになったことにも言及しているが、それは母音が少ない英単語の方が短いメロディに多くの意味を乗せられるからだ。試しに英語の歌と同じ意味を日本語に訳してメロディに載せてみると良い。必ず音が足りなくなる。それは日本語は一文字一文字に全て母音が入るため、一つの音符に一文字しか入れられないからだ。(troubleは2音で言えるがトラブルは4音必要だ。) 3つ目、男=強者、女=弱者→男/女 という図式に全て当てはめているだけ これだけ、おかしな曲のチョイスをしていれば、どんな社会理論でも組み立てられそうだが(若者はみんな本当はゾンビだ、等)この本が導き出したい結論は、どうも、このことらしい。 昭和の演歌、歌謡曲ではあった図式がJポップでは崩れてきている。これが平成の若者の恋愛観なのだ、と。 はぁ・・・。 違うよ、むしろ逆。 歌謡曲、演歌の定義が男=強者、女=弱者、なんだよ。社会がそうだったからとか、社会理論にすぐ結び付けようとするのが大失敗。そういう恋愛模様の歌詞をながったるいメロディに載せて歌う曲、を演歌、歌謡曲と定義してるんだよ。 Jポップっていうのはそれ以外の曲全てを指しているのだから、どんな歌詞もあり得る。どんな言葉づかいも、どんなサウンドもある。ただ、歌詞はメロディに縛られる。だから、歌詞は語感だけで良いという曲作りだってアリだし、先に歌詞があってその後メロディを付ける、ということだって出来る。歌詞を先にしてもかならずメロディに縛られるのは同様だ。なぜなら、この文章の様な歌詞をメロディに載せるのは(不可能ではないが)馬鹿馬鹿し過ぎる。 結論として、歌詞から社会理論を導き出そうと言う手法に無理がある、ということ。 なぜなら、歌詞はメロディに縛られているから。 例えるなら、小学校の運動会でファッションチェックをして「いまどきの小学生のファッションには個性がない」と論じるようなもの。 交通渋滞にはまっている車を見て「この地域の車は早く走れない」と論じるようなもの。 恐らく、本当は大変頭の良い人なので、この本の無茶苦茶ぶりは分かってると思う。 内田先生も言っている通り、この本の評判はすこぶる悪いらしい。そりゃそうだ。 はっきり言って、読まれなくて良い本だと思います。 このまま静かにしておきましょう。