モフモフになれたら

本と映画と仕事と考えたこと

危険思想ギリギリの素晴らしい本『幸せになる勇気』 岸見一郎

本当に素晴らしい本です。素晴らしすぎて誰にもオススメしたくないくらい。

最近、この本に書かれていることしか喋っていません。飲み会で仕事の話になった時も、結婚の話になった時も、家庭でお金の話になった時も、すべてこの本の考え方をモチーフにすれば、ほっと落ち着ける結論に向かいます。自分が良い人間になったような気さえしてきます。逆にこの本をすでに読んでいる人からみたら、「あ、こいつアドラーだな」と一瞬で見破られます。(アムラーみたいな感じで発音)

即行で2回読み返してしまいましたが、その中での金言を紹介します。

P65 いいですか、われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。

ハイデガーの思想にも共通する普遍の真理です。われわれには「今」しかないということを前提にすべてを認識し直す必要があります。過去と現在の因果関係と連続性にこだわるから、突然そっけなくなる彼女に対して「あれ、あの時、あんなに良い感じだったのに」と勝手に傷ついたりするのです。

われわれには今しかない。過去なんて何にも関係がない。今ここ私がどう考え、どう感じるか、それが全てです。過去に縛られているというのは、”今のあなた”が過去を規定し、こだわっているだけです。

「今しかない」という考え方を基本に置けば、過去を悔いて時間を無駄にすることも、取り越し苦労に心を費やすこともなくなり、毎日を全力で生きられるようになるはずです。

P152 おそらくそれは、「普通であることの勇気」が足りていないのでしょう。ありのままでいいのです。「特別」な存在にならずとも、優れていなくとも、あなたの居場所はそこにあります。

ホッテントリに入ってみんなに注目されたいという承認欲求に駆動されてわれわれブロガーは記事を書いています。

でも、そんな承認欲求に終わりはありません。どんなに人気ブロガーでさえ(ちきりんでさえ)絶対にいつかは凋落の日が訪れます。その時に「最近PVが落ちてきたな」と悩むようでは、一生承認欲求の奴隷です。

「別に注目されなくてもいい」「自分は自分のままですでにみんなに認められている」と考えることで、ようやく人は自由になれます。

たぶん、ちきりんさんはその境地に達しているので、はてな界隈で騒がれている「ちきりん凋落」に関する議論には全く興味がないはずです。

P183 仕事の関係とはなんらかの利害、あるいは外的要因が絡んだ、条件付きの関係です。中略、一方、交友には「この人と交友しなければならない理由」が、ひとつもありません、利害もないければ、外的要因によって強制される関係でもない。あくまでも「この人が好きだ」という内発的な動機によって結ばれていく関係です。先ほどあなたの言った言葉をかりるなら、その人の持つ「条件」ではなく、「その人自身」を信じている。

この議論でいうと、「20代で身長175cm以上で年収500万以上」という条件で選択された結婚というのは「仕事の関係」になります。結婚とは「相手との信頼」でできるものではなく、「一緒に共同体を運営する仕事の関係」と考えることも出来る。基本的には私はそれで良いと思う。

一方、「交友」、つまり友人とはただ一緒にいるだけで楽しい、という純粋な動機から生まれる関係なのです。

だから、結婚は利害関係がなくなったり、交流の機会が減ったり(たとえば別居、単身赴任)、情欲の対象から外されれば、関係を解消される可能性があります。

でも友人関係は全然関係のない世界に住んでいようが、5年間音信不通だろうが、性欲が枯れようが、継続します。

なんども言いますが、結婚は交友でなく、条件付きの関係です。婚活活動中の方は、”結婚は仕事の関係である”という意識で臨んだ方が、うまくいくと思います。

P187 人間はなぜ働くのか?生存するためである。この厳しい自然を、生き抜くためである。人間はなぜ社会を形成するのか?働くためである。分業するためである。生きることと働くこと、そして社会を築くことは不可分なのです。

生きることと共同体を運営することは同義であるというのは内田樹もよく仰る話でもありますね。厳しい自然を生き抜くために働かなくてはならないのなら、人間が自然をコントロールし、働かなくても生きている人間が一定数現れた現代では、働かなくても良いのか。いや、そんなことはない。

人間が自然をコントロールしきれるわけがない。ある日突然、自然が猛威をふるい社会インフラが全て破壊される可能性は常にあります。道路水道が壊れ、発電所が停止し、会社組織が通常通りマネージメントされなくなった時でも、我々は周りの人と手を取り新たな共同体を立ち上げねばなりません。生きるために。

きっとわれわれはゼロから共同体を立ち上げ、運営できるオトナになるために、働いているのだと思います。労働を通じて、人間理解を進め、自分自身を知ることが、そういうオトナに成長するということなのだと思います。

P193 しかし、分業を始めてからの人物評価、また関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助け合うことは難しくなりますからね。そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困った時、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。

タスクの処理能力が高い人、アイデアが豊富でクリエィティブな人がいる集団は強い。利益を継続的に生み出すという意味で、ビジネス上の競争では強い。でもそれだけでは、共同体のサステナビリティという点ではちょっと弱い。

必ず、自分の主張は弱いけれども、周囲の議論をバランスよくまとめる人や、ゲラで場を和ませる人や、穏やかな雰囲気で周囲を癒しくれる人が会社では必要だと私は思う(たとえどんなに仕事が遅くても)。決算書には表れませんが、彼らが共同体を内部から支えて、過酷な競争環境で勝ち続けられる体質を維持してくれていることを無視してはなりません。

トップクラスの投資銀行コンサルティングファーム、総合商社に”感じの良い”美人やイケメンばかりいるのはそういう理由なのです。たぶん。

P236 幸福とは貢献感である。中略、われわれはみな「わたしは誰かの役に立っている」と思えた時にだけ、自らの価値を実感することができるのだと。自らの価値を実感し「ここにいてもいいんだ」という所属感を得ることができるのだと。中略、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚があれば、すなわち貢献感があれば、それでいい。それ以上の根拠を求める必要はない。貢献感の中に、幸せを見出そう。貢献感の中に、喜びを見出そう。われわれは仕事の関係を通じて、自分が誰かの役に立っていることを実感するでしょう、われわれは交友の関係を通じて、自分が誰かの役に立っていることを実感するでしょう。だとすれば、幸せはそこにあるのです。

もうこれが仕事の全てです。自分がやったことに対して「本当は相手がどう感じているか」は原理的に分かり得ません。だから、そこを気にしても貢献感、ひいては幸せを感じることはできない。

われわれにできることは「自分が良いと思うことをやって、そこに貢献感」を感じることだけです。たしかに「独りよがり」かもしれません。「おせっかい」かもしれません。でも、それでいいのです。われわれは「独りよがり」と「おせっかい」を通してしか人と交流できないし、そこに幸福を見出すのですから。

何もしないではゼロ。でも何かをすれば、「独りよがり」や「おせっかい」になるかもしれないけど、本当に誰かの役に立っている可能性もあるのです。それ以外に何があるのか。

P239 利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げること。それが愛です。

生きることが他者と共存することと同義なのであれば、自分の幸せを求めることは同時に「われわれの幸せ」を求めることになる。当然の帰結です。でもこの「わたしたち」という言葉が「国民」や「民族」という集合にすり変わった途端、目を覆いたくなるような暴力性が生まれるのも歴史的事実です。この「わたしたち」をどこまで拡大することが出来るのか。そこが愛を考える上で非常に重要です。

全人類を包括する「わたしたち」という考えは全体主義的です。「わたしたち」という言葉が自分の身体から離れた途端、顔が見えなくなった瞬間、その言葉は無限の暴力性を帯びるようになります。「なぜおまえは自分のことしか考えないのか!わたしたちの深遠な目的のためにお前の幸せなど犠牲にすべきなのだ」という形で。

人間が愛することが出来るのは、せいぜい「目の前にいて、手で触れて、言葉を交わして、感動を共有することができるところまで」なのではないでしょうか。まだ触れたことも会ったこともない知らない誰かを愛している、というのは一種の暴力です。顔の見えない相手に対して、人間はどこまでも残虐になれるものです。そこだけは気を付けましょう。


今、目の前にいる家族、仕事をする仲間、友人を「わたしたち」として愛して、「彼らの役に立つこと」をし続けましょう。
そうすることによって、貢献感を得、幸せを実感することができます。
それが幸せのすべてです。


という感じの本です。
一歩間違えると危険思想につながりますが、とても大事なことを教えてくれる本でした。万人にオススメです。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII